すっかりご無沙汰しております。約2ヶ月ぶりの生存確認的更新です。
おかげさまでその後も、相変わらず元気でのんきな日常を過ごしております。
日曜日にはだいたいサイクリングに出かけてしまうのですが、雨確率が高い週末には、気になっていたSR400の要メンテナンス箇所をいくつかいじってヒマつぶしをしていました。93,000kmも走ると次から次へとネタが発生するので退屈することはありません。
いつものように、次男と2人「あーでもない、こーでもない」と助け合ったり揉めたりしながらの作業でした(^^;
緊急性の高い順に手をつけて行きます。まずはオーバーフローし始めたキャブレターの修理から。
買い置いてあった社外品のオーバーホールキットを組み込もうと思ったらジェット類がぜんぜん適合せず。型式確認して注文したのになんでやねん!
それでもキットのニードルバルブとOリングは使えましたし、部品取り用に譲りうけていた別のキャブからバルブシートを外して組み込み、どうにかオーバーフローは解消しました。
次の雨日曜日にはフロントブレーキのメンテでした。SRのディスクローターの厚さは新品で5mm。メーカーは4.5mmまで摩耗したら要交換としています。ところがうちのSRは4.1mmまで使い倒しました。ヤフオクでフレ無しの新品同様ローターを落札して保管してありましたので交換。このあとボルトも新品に交換しました。
取り外して右側に乗せてあるのが古いローター。写真ではちょっと分かりにくいですが、外周1〜2mmの部分に深い段差があります。
ブレーキフルードは2年ほど前に交換しましたが、キャリパー本体は購入時からノーメンテ。今までより9mmも厚いローターを噛ますわけですから、引きずりそうな予感はしていましたが案の定でした。
この際なのでスライドピン・ピストン・オイルシール・ダストシールも交換しました。フルードが変性した固形物がオイルシール溝にモリモリ詰まっており、これもピストンの動きを渋くしていたはず。ドライバーや曲げたゼムクリップで掻き出して、すっかりキレイになりました。
フルードはシリンジを使ってブリーダー経由で。エア抜きも完了して引き摺り解消。
そのまた次の雨予報の日曜日には、フロントフォークのオーバーホールでした。
スプリングに着いたフォークオイルはまっ黒け。
いちばん上からオイルシール、ワッシャー、スライドメタルの順。わが家のSRは3型と呼ばれる世代なのでスライドメタルの抜去は簡単。2型まではこれをプーラーで引き抜く作業がフォークメンテの最難関だったとか。
オイルシールに傷がつくとフォークオイルが漏れてしまうので、シール内面にオイルを塗布後ポリ袋で保護して通します。
スライドハンマーなんか持ってないので、ホームセンターでサイズの合う塩ビ管を買って来て圧入しました。
新しいフォークオイルはこんな色。
オイルを注いでしばらく放置してエア抜き。スプリングを挿入します。このあと油面を調節して車体に組みました。
トップキャップは17mmの六角。そんなサイズのレンチを買ってもほとんど使う機会がないので、ネットの知恵を拝借して外寸17mmの長ナットをメガネレンチで回して固定しました。
前サスもブレーキもカッチリ感が出て気持ち良い! ローターのボルトが新しくなっただけで印象が若返りました。
じつはフォークを車体にセットする際に下の写真に写っているゴムブーツを履かせ忘れました(^^;
まぁSRのブーツは飾りだし、次男と「ブーツ無しもわるくないよね」と意見が一致しましたので、しばらくはこのままで行きます。
SRの作業の合い間、次男は通勤用の2ストスクーター、スズキ「レッツ」のVベルト交換もやっつけました。
新緑が青空に映えて、自転車にもオートバイにも気持ち良い季節になりましたね。みなさんも気をつけて楽しみましょう!(^_-)
]]>
しばらくブログが更新されないので、私が体調を崩していないかと心配して下さる方から連絡を頂きました。
おかげさまで身体も心も至ってって元気に過ごしております(^^;
いつも通り平日は元気に働いて日曜日には100km未満のサイクリング。音楽を聴いて本を読んで映画やドラマを観て、もうちょっと経つと野球も始まりますし、変わらず日々を楽しんでいます。
ただ、年齢的な衰えでしょうか、ここのところ自分の考えや感じたことを言葉のかたちに変換することが少ししんどくなって来ました。それでもすっかりやめてしまうのは寂しいので、ぼちぼちと不定期で更新して行こうと思います。
さて、日曜日には近所のシネコンで「BLUE JIANT」という映画を観てきました。
中学生の頃、友人に連れられて聴きに行ったジャズの生演奏に心打たれた仙台在住の主人公。高校生になってバスケ部に入部するも並行して独学でテナーサックスを練習し、卒業とともに上京します。誰とも違う自分の音と情熱。あと運と縁にも助けられて彼が世界的なプレーヤーになっていく物語です。コミックスではすでにヨーロッパやアメリカに舞台が移っていますが、映画は日本を飛び出すところまで。
原作の漫画「BLUE JIANT」はコミックスが2013年11月に発売され、シリーズ累計発行部数は840万部を超えているとのこと。絶滅危惧種であるジャズファンの数を考えれば、信じられない売り上げです。おそらく漫画「岳」で不動の人気を得た石塚真一のファンのおかげだと思われます。若い漫画・アニメファンがこの作品をきっかけにしてジャズに興味を持ってくれるのは、たいへん喜ばしいことです。
コミックス第1巻が発売されて間もない頃、発行元の小学館に勤務する自転車仲間が、ジャズ好きの私宛てに届けてくれたのが縁で読み始めてから10年。病気で亡くなってしまったチームメイトのムッシュもこの作品の大ファンでした。彼は新刊発売のたびにFBで告知してくれていましたっけ。
映画化されると聞いたとき、漫画に描かれた情熱的な演奏シーンをどう表現するのだろうかと、正直なところかなり不安でした。
しかしそれも杞憂でした。ブロウの表現もアツかったのですが、なにしろ録音が素晴らしくて、ブレスの音やテナーサックス独特のザラついた色気のあるトーンまで細やかに再現されており、コアなジャズファンも充分満足できる出来でした。ムッシュにも観せてあげたかったなあ。
(画像はファミ通.comから拝借)
ありがたやシニア料金(≧▽≦)
]]>
「別に悩んでいるわけでもないし、どうしたいという積極的な思いもなくて、ただぼんやりとした不快感だけがあって、何かを改善したいというほどの強い思いもない。できるだけ不愉快な思いをしたくないし、危険な目にあいたくないとは思うけれど、そんなことが生きる意味になんてならない。きっと私は空っぽの人間なんだと思うな。」
前々回の更新で紹介させて頂いた上田岳弘の最新作「引力の欠落」で、主人公の女性がAlexa相手に独り言ちる場面の一節です。
主人公は数々の企業の上場にCFO(最高財務責任者)として関わったことで巨富を得て、経済的には充足しつつも深い孤独を抱えています。勝ち組になることを生きがいに来たものの、若くしてある意味人生を上がってしまった今、想像していたような幸福感は得られませんでした。
彼女は、仕事で関わりを持つことになった弁護士のマミヤから「人間からはみ出した方がいい」と言われ、奇妙なペントハウスの集まりに招待されます。そこには自らを秦の始皇帝や錬金術師だとする「自己認識がおかしな人たち」がくつろいでいました。彼らは自らをUEH(未確認生存人間)、9人の「クラスター担当者」なる特別な存在であると名乗ります。どうやら集まりに参加出来なくなってしまった「引力クラスター」の後釜としてスカウトされた主人公。
相変わらずシュールな設定です。
芥川賞受賞作の「ニムロッド」のあと、「私の恋人」、「引力の欠落」と彼の作品を3作続けて読みました。それらの作品に共通して漂うのは虚無感。宗教やイデオロギーなどの限界が見えてしまった現代、世界は脳が見せる幻影であることを思い知らされます。
人類はもう歴史を何周もしているように感じますし、いいかげん人間を生きるということがどういうことか理解し始めているように思います。
主人公のように個人レベルの生きがいでさえ、どこかで意味を失ってしまうのもよくあること。それでも、幻影だと分かっていても、何かしらの強い思い込みを持たないと人間を生きて行くことは出来ません。作者はそこにいわゆる”ブルース”を感じるようです。
上田岳弘という人。彼の作品を読んでいると、生きることへの執念がまるで感じられない人という印象を受けます。「人間は望まれて生まれてくることはあっても、望んで生まれてくることはない」などのフレーズは親が聞いたら悲しみそうです。死生観とか生きるということの解釈とかが自分と近い気がして、不謹慎な感覚で生きているのは自分だけじゃないじゃん、と慰められるんですよねー(^^;
アニメ調のちょっと変わった装丁でした。
]]>
40年ほど前、私が中学生だった頃のこと、実家の田んぼ脇には農機具用の納屋がありました。
たまにそこを通りかかると、明治生まれの祖父がゴツい指で黙々とわらじを作っているのを見かけることがあり、いつか作り方を教わりたいなと思っていました。
私の実家は海の近く。磯で釣りをしたり貝を獲ったりする際に、海藻がついて滑りやすい岩の上を歩くにはわらじが最適なのです。また、葬儀の際には仏さんの棺の中に死出の旅路用にわらじをいくつも入れたり、座敷から棺を担ぎ出す縁者もわらじを履いて下りていたように記憶しています。
しかし、ほどなく祖父は脳卒中で身体が思うように動かせなくなり、私の願いがかなうことはありませんでした。
その後もテレビの時代劇などでわらじを見かけるたび、納屋で両足の親指に縄をかけてわらじを作っていた祖父の姿を思い出していました。そして最近のこと、十日町市にわらじ作りを教えてくれる教室があることを知り、さっそくエントリーしてみました。
次男も一緒に行きたいと言うので、運転手を兼ねて同行してもらうことに。
わらじ作り教室は13:30開始なので、それまでは魚沼あたりで観光。西福寺開山堂は江戸末期の彫工、石川雲蝶の作。彼の名を世に知らしめることになった寺社彫刻の数々は、たしかに圧巻でした。残念ながらお堂の内部は撮影禁止ですので木鼻の写真だけ撮って、天井彫刻の写真は魚沼市の観光協会から拝借しました。
六日町から十日町へ抜ける八箇峠。ここから塩沢石打方面へ、山の中腹を走る魚沼スカイラインは紅葉の名所とのこと。時間がゆるすだけドライブして来ました。紅葉のピークには1週間ほど早かったようですが、標高の高い山肌はもう見事に色づいていました。
スカイラインの展望台でコーヒーを一服。
お昼前には十日町に到着。十日町といえば食事はもちろんへぎそば。「直志庵 さがの」さんは評判通り美味しかったです。
そしていよいよお教室が始まりました。
ブレブレ写真。
次男の自撮り。
レンタカーの返却時間が気になって、本来の終了時間より少し早く失礼させて頂いたので、裏側から出ているモシャモシャは未処理。次男のわらじはまだ片方鼻緒がついていません。帰宅してからちゃんと仕上げます。
今回、しっかり作り方を教わりましたので、こんどは鼻緒も自分でなった縄を使い、仕上がりにこだわってもう一足作ってみようと思います。
やっと40年来の念願が叶いました。慣れない姿勢で作業に集中しましたので、終わったあとは抜け殻のよう。いやぁ、充実した時間でした。
わらじ作りの先生は地元で農家を営むH坂さん(82才)。
おだやかな声で、地元の風土のことやご自身の子ども時代のお話なども織り交ぜながら、制作の手順をきめ細かく教えてくださいました。
次男はすっかり彼の人柄のファンになってしまったようです。一緒に過ごすだけで人を幸せな気分にさせる人でした。あこがれます。
さすがは”行楽の秋”の日曜日、帰りの関越道はしっかり渋滞しており、けっきょくレンタカーの返却時間には間に合わず、翌朝返しに行きました(^^;
(今回の写真のほとんどは、次男から拝借しました)
]]>
子供の頃は読書が苦手でした。もっと言うと算数の文章問題でさえ、最後まで集中して読むことができませんでした。
今で言うところの、ADHDの形質によるところが大きかったのではないかと思います。算数のテストでは、脳の処理能力に余力があっても情報の入力の途中で集中力が切れてしまって、あとは死んだ魚のような目で文字・数字の羅列を眺めて過ごしていました。
私の場合、成長するにつれて形質による支配がおだやかになってくれましたので、20代の頃には読書も楽しめるようになり、30才で入学した鍼や接骨の専門学校では、自分の脳ミソとは思えないほどの絶好調っぷりでしたっけ。
ところが60才を過ぎて、またまた集中力の衰えを感じる今日この頃。劣化が加速する脳をどうにかしないと次の世代に迷惑をかけてしまいますので、ちょっと読書なんかしてみました。
読んだのは2020年芥川賞受賞作の「首里の馬」高山羽根子と、2018年の芥川賞受賞作「ニムロッド」上田岳弘の2冊。どちらも読み応えのある作品でした。
「首里の馬」
沖縄に住む、社会への適応に自信がない若い女性が主人公。孤独を感じながらも、自分を受け容れてくれる数少ない人たちの存在が救いになり、おだやかな日々を過ごしていました。仕事は世界のあちこちに居るユーザーに、オンラインでクイズを出すというもの。宇宙ステーションに居る人、南極の海中の研究施設に滞在している人、紛争中の都市のシェルターに居る人。彼女は利用者たちも自分と同じように孤独であることで、彼らにシンパシーを感じていきます。そんなある日、自宅の庭に迷い馬?がうずくまっているのを見つけました。その馬との出会いをきっかけに彼女の中にかくれていた大胆さが弾けます。
設定はつっこみどころ満載なのですが、純文学は芸術ですから細かいことはどうでもよろし。南米マジックリアリズムに通じる非日常感と、すべての表現がすこし丸みを帯びているようなやわらかさ。”孤独をテーマにした大人の童話”というのが私の感想です。
「ニムロッド」
サーバーセキュリティ会社で働く主人公が、仮想通貨のマイニングを命じられます。どこか虚無的な気持ちでその業務に取り組んでおり、仕事にたいする熱量はそれほど高くありません。私生活では大企業のM&Aの交渉を任せられるようなビジネスウーマンとドライな関係を続け、鬱病を発症して会社を辞めた小説家志望の元同僚である”ニムロッド(荷室)”から送られてくる作品を読む日々。登場人物はこの3人だけです。
すべてのことが並列に情報化される現代社会。仮想通貨のように、人間の欲望が情報に重力を生み、その重力が価値になって行きます。元同僚のニムロッドの小説では、”人間も並列に並ぶ情報の一部。自らの価値を証明出来ないのであれば、いっそ自己認識を捨てて全体に溶け込んでしまえば全能感が得られる” という誘惑に負けて世界がディストピア化していく中、主人公はある選択をします。おそらくニムロッドも自身の小説の主人公と同じ選択をしたのか、連絡が途絶えてしまいます。
情報があふれる現代社会に生きる若い世代の内面に、すこしだけ触れられた気がしました。上田岳弘の作風が気に入ったので、図書館で別の作品も借りて来たところです。楽しみ!
]]>
古くからの慣用句に言うとおり、お彼岸近くになるとちゃんと涼しくなるもんですね。
私は夏が大好きでした。50才くらいまでは、、
亜熱帯植物が自生する温暖な気候の室戸で生まれ育った私は、紺碧の空をくっきりと切り取る夏山の稜線を眺めるだけで、背筋が伸びて元気が出たものでした。
東京で過ごした夏も今年で45回め。東京の街としての熱は、何もかもがアナログでつながっていた昭和の頃のほうが熱かったように思うのですが、夏の暑さは年号が下るに連れきびしくなっているように感じます。
どこか誇らしい気持ちで ”暑ければ暑いほど夏が好き!” と言い放っていたのが遠い昔のよう。当時は熱帯夜でもエアコンなんか使わず朝まで熟睡出来たのに、今では寝苦しさに負けて寝入りばなにはエアコンを使ってしまいます。なんならあれほど憎んでいた冬の寒さに対して寛容な気持ちさえ芽生える始末(^^;
それでもやはり夏の終わりは寂しいんですよね。どんなに暑さが辛くても、けっきょく夏を嫌いにはなれません。
妙齢の患者さまたちの「まったくいつまでも暑いわねェ」というファンキーな時候のあいさつに、「寒くなるのはあっという間だから名残惜しんでおいたほうがいいですよ」なんて応えると、だいたい「冗談じゃないわよ。殺す気?」なんて八つ当たりされます。夏が名残惜しいうちは、まだまだ青二才なのかも知れませんね(^^;
毎年9月になると台風の進路は日本列島に近づいてくる傾向ですが、今週末も地味なやつが迫っているようです。気圧の変化に影響を受けてか、いつも以上に不調を感じている患者さまが多くなっています。10月になれば秋の安定した気候に入るはず、もうしばらくの間ご自愛くださいませ(^_-)
]]>
ブログの更新間隔がいつもより空いてしまいました。
読み始めた本が文庫6巻2,157頁となかなかのボリュームで、自由時間のほとんどを読書に費やしていたのです。本の題名は「1Q84」。2009年に出版された村上春樹の小説です。数ある彼の長編の中で唯一読み逃していた作品。途中でやめられないほど面白くて毎日100頁以上読んでしまいました。やはり彼の作品は読み物としては期待を裏切りません。しかし、世界的な文学作品のように作品固有の精神世界へ誘導されるような没入感が得られるかと言うと、、彼は大きな賞には縁がありませんがそれはそれで妥当な評価だと思いますし、熱狂的なファンが世界中に存在することも納得。いろいろな国のファンの方たちと彼の作品について語り合ってみたいものです。
夕食時や食後の歯磨きタイムも貴重な自由時間。さすがに読書はできませんので、アマプラで映画も何本か観ました。
鑑賞履歴からアマプラがおすすめしてくる作品はイスラム系のものが多かったので、そこから4本ほど。
?風が吹くまま:1999年 フランス、イラン合作 アッバス・キアロスタミ監督
イラン、テヘランのテレビ局クルーが、葬儀の際の独特な風習を取材するためにクルド系の小さな村を訪れます。彼らは危篤状態の老婆が居るとの情報を得ており、数日間の予定で村に滞在しますが、数週間が過ぎても老婆の死は訪れず、ディレクターはいら立ちを募らせながらも、村の人々と少しづつ交流を深めて行きます。
クルドの村の美しい風景や村人たちの素朴な人柄。何とも味わい深く良い映画でした。
イランはアメリカとの関係は冷えたままですが、意外やEUとは対話や貿易が盛ん。この映画もフランスとの合同制作です。
?禁じられた歌声:2014年 フランス・モーリタニア合作 アブデラマン・シサコ監督
西アフリカ、マリ共和国の小さな町ティンブクトゥで牛7頭を飼って生計を立てていた仲の良い娘ひとりの3人家族。ある時からイスラム過激派が町を占拠し、住民たちは大好きだった音楽もタバコもサッカーも禁止。貧しくとも心豊かだった暮らしは、窮屈なものになっていきます。原理主義者たちは戒律を都合良く解釈して、住民の娘を強引に戦士の妻として奪っていったり、むちゃくちゃな裁判ですぐ処刑したり。ある事件をきっかけにして仲良し3人家族の日々も暗転してしまいます。
映画としての完成度が高いとは言えませんが、アフリカの各地で実際に起こっていることを知る機会になりました。ちょっとツラい、、
?娘よ:2014年 パキスタン・アメリカ・ノルウェー合作 アフィア・ナサニエル監督
実話をもとに制作された作品だそうです。パキスタンの人々の日常生活の様子を知りたくて観てみました。
パキスタンとインド、中国の国境にそびえ立つカラコルム山脈。その麓にはいまだ多くの部族がひしめき合っています。部族間のトラブルを解消するために、ある部族長は10歳のひとり娘を相手部族の老長老に嫁がせることを決めました。自らも15歳で同じ目に逢った部族長の妻は、結婚式当日に娘とふたりで村を逃げ出します。母娘はメンツをつぶされた両部族の追跡から逃げきれるのでしょうか。
「風が吹くまま」もそうでしたが、美しい風景や彼の地の伝統的な習俗を見るだけでも楽しめると思います。
?娘は戦場で生まれた:2019年 イギリス・シリア合作 ワアド・アルカティーブ エドワード・ワッツ監督
今回観た中でもっとも衝撃的だった作品です。以前映画館に観に行ったドキュメンタリー映画「ラッカは静かに虐殺されている」よりも強烈だったかも知れません。
シリアではアサド大統領による独裁政権が40年以上続いています。2011年には、チュニジアのジャスミン革命に触発されて政権に対する国民の不満が爆発。とは言え、はじめは民主化を求める平和的なデモ運動でした。しかし運動に対する弾圧は厳しく、ついに反体制派は自由シリア軍を結成して武装蜂起。政権側と反体制派、クルド人勢力、過激派組織イスラム国がグッチャグチャの内戦を展開しました。混乱のあとに影響力を持ちたいアメリカ、ロシア、トルコ、サウジなどもそれぞれの勢力を援助したものだから、ますます収拾がつかなくなり、内戦状態は現在も継続中です。
映画は、2011年当時大学生でデモの参加していた女性、ワアド・アルカティーブが、2016年の反体制派の拠点アレッポが陥落するまでを撮り続けたドキュメンタリー・フィルムです。映画のほとんどは、アルカティーブが抵抗運動中に結婚した医師のハムザが勤務していた病院で撮られています。病院の床は繰り返される爆撃の犠牲者たちの血で絶えず血に染まったまま。両腕がちぎれてしまった幼児の遺体を放心状態で見つめる兄弟の目。妊娠9ヶ月で爆撃に遭い、意識不明で運び込まれた妊婦は破片の除去と同時に帝王切開を受けますが胎児も心肺停止。医師はあきらめず、刺激を加え続けると、、
政権側は反体制側の心を折るために病院を狙って爆撃を加えるため、病院も転々と場所を変えて行きます。最後に生き残った医師はハムザだけ。最後の病院で彼は20日間で890件の手術をしたそうです。
医師とジャーナリストとして、途方もない数の死を見届け続けるふたりは娘を授かりました。娘は病院のスタッフたちの希望の象徴になって行きます。
当事者が一人称で撮った映像は、他国から戦地に入ったジャーナリストが撮った報道の映像とは、出来事の見え方がまったく違いました。
この映画は気の弱い方は観ない方がいいです。ただ、世界の情勢が油断できないフェーズに入ってしまった昨今、平穏な日常がある日突然、死と隣り合わせの日々に変わることがあるというのも現実。そのときに何が起こるのかを知っておく意味はあると思います。
ひさしぶりの更新でしたので長い文章になってしまいました。どうかお許しくださいませ(^^;
]]>
いや、誰かにそんな質問をされたわけではありません。ある日何の気なしに観ていた、タレントさんたちがお酒を飲みながら雑談するバラエティ番組の中で、「好きな言葉は何ですか?」というテーマが設定されたのです。
ビール片手に観ていた私は、「”好きな言葉”とか”座右の銘”とかを語るヤツって、だいたいちょっとめんどくさいんヤツなんだよなー」などと独り言ちていましたが、よく考えたら自分にも好きな言葉がひとつだけありました。
「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」という句です。
これは比叡山山中で行われる天台宗の修行、「千日回峰行」を2回達成した酒井雄哉大阿闍梨が修行に入る前に、彼の師である箱崎文応師が授けてくれた句だそうです。
千日回峰行とは、7年間の修行うち1〜3年めは1年のうち100日連続で、4〜5年めは200日連続で深夜2時に出発して台風の日も雪の日も真言を唱えながら、山中の仏塔やお堂など260箇所で礼拝して約30kmの山道を歩き、その後断食・断水・断眠・断臥の4無行の堂入り。それが明けるとまた6年めは1日60kmを100日、7年めは200日。途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、降魔の剣(短剣)、三途の川の渡り賃である六文銭、埋葬料10万円を常時携行する。そんな過酷な修行です。
平安時代から行われていたというこの千日回峰行。過去には51人が達成していますが、2回達成した人は酒井大阿闍梨を含めて3人しかいないとのこと。
酒井大阿闍梨は、旧制中学卒業後、慶応義塾商業学校を経て熊本県の予科練に入隊。特攻隊基地の鹿屋飛行場で終戦を迎えました。戦後、事業の度重なる失敗や妻の自殺などを経て1965年に得度し比叡山へ。以前に彼の本を読んだりテレビの特集を観たりしましたが、本人の談によれば仏門に入るきっかけも修行を始めるきっかけも、とくに高邁な志によるものではなかったとのこと。社会に適応するのが難しく、身の回りのいろいろなものから逃げ出したくて叡山に居場所を求めたようです。
社会に適応することが困難な形質を持っていても、自分に向いた道と出会って楽しんでいるうちに、常人には成し遂げられないような偉業を達成する。すると社会は手のひらを返したようにその人格さえも好意的に評価するようになる。よくあることですね。
さて、この「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」 箱崎師はこの句に込めた意味を、こう説明してくれたそうです。
「人間というのは、どこで死んでもかまわないという気持にならなければならない。ましてや行なんてものは、そういう気持でないとできないんだ」「今いるところがもう自分の墓場なんだよ」
自分で決めた道を進むのなら、今いる場所でいつ死んでも後悔しないように、生きる覚悟が大切だと云う事のようです。
私はこの句を目にしたとき、本来の「何かを達成するためには、大切なものさえ捨てる覚悟が必要」という解釈ではなく、「だいたい執着などというものが足かせになる。日々自分なりのベストを尽くせば、あとはなるようになれッスわ」という勝手な解釈をして、すっかり気に入ってしまったのです。本来の意味を知ったあともそれを改める気はありません。アーティストが楽曲をリリースしたあと、自分が意図しない解釈で受けとめられて曲が勝手にひとり歩きしてしまうという話はよく聞きますが、そんな感じ(^^;
「好きな言葉を語るヤツはだいたいめんどくさいヤツ」。自分がめんどくさいヤツである自覚はちゃんとありますよん(≧▽≦)
]]>
今月12日に記録的な大雨が降った埼玉県西部地域。毛呂山町では1時間あたりの雨量が120mmに達したそうです。年間降水量が全国でもトップクラスの高知県で育った私でも、100mmを超える雨はそう何度も経験していません。今回の雨、山沿い川沿いにお住まいの方たちはさぞ怖い思いをされたことでしょう。当日の報道でも、私が毎週のようにおじゃましているときがわ町や越生町あたりの土砂崩れや冠水の情報が伝えられていて気がもめました。浸水してしまったお家はたいへんだと思いますが、けがをされたり亡くなった方の知らせがなくて何よりでした。
それから約1週間後の18日(海の日)に自転車で、やはりあの日豪雨に見舞われた奥武蔵グリーンラインを走って来ました。
Twitterのフォロワーさんの中に、すでに豪雨後の現地を走って通行止め状況を知らせてくれた方があり、刈場坂峠までは通行に問題がないことは確認済み。しかし、路面は土砂の流れ出しや散乱する折れ枝が多く、下り区間ではかなり神経を使いました。
まずはいつものように、林道関の入線からグリーンラインの尾根道に取りつきます。
前日にも雨が降ったので、濃い森の気配が身体の隅々まで行きわたる感じ。うっかり自分も森の一部になってしまいそうでした。
写真は五常の滝の流れ込み部に至る区間。この道幅で15%前後の斜度ですから、対向車が来ると足を着かざるを得ません(^^;
雨に濡れて迫力が増した天文岩。
ところによっては、浸み出しが川のように流れていました。
この日は晴れたり曇ったり。グリーンラインの気温はだいたい20℃〜22℃でした。
上り区間で目の前に現れるとびっくりするやつ。クモの巣から下がった枯葉です。
なんや知らん花と青空。
この日も天目指峠を越えて名栗みちへ。道沿いを流れる久通川は、水量は多めですがそれほど濁っていませんでした。
下界は暑くて32℃。写真はバーベキュー場の薪割り場。河原のビールがうらやましい!
今日のウシさん。
またまた新型コロナの感染者が増えて日々心が休まりませんね。もうしばらくの間気をつけて過ごしましょうね。
]]>
Spotifyを利用し始めた頃にオススメに出て来て、それ以来聴き続けているのが、SUNHOUSEのアルバム「Crazy On The Weekend」。
この2年くらい、我ながらよく飽きないなというくらい聴いています。サンハウスと言えばデルタブルーズのレジェンドを連想しますが、あちらはの綴りは「SON HOUSE」。こちらはそれほどブルーズ色が強いわけではないので、レジェンドを意識してつけたバンド名ではない気がしますが。
さてこのSUNHOUSEというバンド、リリースされているのはこのアルバム1枚だけ。当初ネット検索してみても日本語での情報はほとんど見あたりませんでした。今回ブログにアップするのでちょっとまじめに調べてみたところ、英語版のWikiにかろうじてバンドの情報が載っていました。
ソングライターのギャビン・クラークは、遊園地で働いていたときに出会った映画監督から依頼を受けて低予算映画のサウンドトラックに曲を提供することになり、急遽バンドを結成。映画で使用された曲を中心に1998年にリリースされたデビューアルバムが「Crazy On The Weekend」でした。メディアの評価は高かったものの、商業的にはうまく行かずバンドは1年で解散することに。ギャビン・クラークはその後も地道に音楽活動を続けていましたが、残念ながら成功には結びつきませんでした。そして2015年、アルコール依存症に由来する呼吸不全で亡くなってしまいます。
フォーク・ロックテイストの曲にギャビン・クラークのハスキーなボーカル。アメリカンど真ん中な曲が多いので、すっかりアメリカのバンドだと思い込んでいましたが、イングランドで結成されたと書いてあってびっくり。
Spotifyでの再生回数も、タイトルチューンの1曲めはかろうじて10万回を超えていますがほかの曲は数万回。こんなに素晴らしいアルバムがなぜ売れなかったんだろうと、ずっと不思議でしょうがありませんでした。今回、ネットで歌詞を見つけて訳してみたところ、あまりに暗すぎて「こりゃ売れんわ、、」と納得。喜怒哀楽などのいわゆる”情動”より深いところにある、自分自身の内面を観察する習慣のない人は、そこへ誘導されるような音楽を聴くのが恐ろしいのだと思います。
それほど英語が得意でない私は、まさかそんなネガティブな歌詞だとは知らずに2年間も愛聴していたのだから間抜けなハナシです。いや、暗い詞も嫌いではないのでそれはそれで良いんですけどね(^^;
Youtubeには全曲アップされているようです。2曲貼っておきますので、気になる方は他の曲も検索してみて下さいね。ほんとうはアルバムの曲順で聴くのがいちばんなのでSpotifyやApple Musicなどの配信で聴いてほしいところです。年齢を問わずハマる人も多いはず。何しろ一度聴いてみて下さい(^_-)
]]>
若い頃は常にアンテナを張り巡らして、自分を刺激してくれるものを飢えるように探していたものですが、そんな衝動も年齢と共にだんだん薄れて来てしまいました。音楽にせよ小説にせよ、居心地が良い精神世界へ誘導してくれるものばかりを手に取ってしまいがちです。それでも、身体と同じで感覚の代謝も滞ってしまえば死んでいるのと同じだと、ときどきは未知のものに挑戦しています。
ジャズで言えば、新しい潮流のロバート・グラスパーとカマシ・ワシントンを聴いたのが3年前。たしかこのブログにもインプレを書いたはずです。それ以来新しいミュージシャンの音楽を聴いていなかったことにはたと気づき、Spotifyのリコメンドにしたがっていろいろ聴いているうちに、ついにお宝を見つけました! 気鋭のトランぺッター、アンブローズ・アキンムシーレです。
彼は1982年、カリフォルニア州オークランドでナイジェリア出身の父親とミシシッピ州出身の母親の間に生まれました。
ドンピシャのヒップホップ世代ですから、子供の頃から日常生活の中にヒップホップがあったのでしょう。インタビューではこう答えています。
「ヒップホップの後にジャズを聴いた時はそんなに大きな跳躍だとは思わなかった。両方ともポップミュージックよりもリズムに重点を置いているし、アートフォームを前に押し進めよう、何か新しいものを見つけようという考え方を信じているしね」
また、「僕は50年代のビ・バップ・プレイヤーの人生なんて生きていないから、あんな音は出せない。音楽一家に生まれたわけでもないし、テレビやラジオからヒップホップが流れる地元で育った。そこに良いも悪いもないし、そんなところを取り繕ってもボロが出るだけ。自分に起きたことの全部を受け入れて、真摯に自分の音を探す。アルバムに詰まっているのは僕そのものなんだ」とも。
彼は楽曲を自分で書いた短い物語や文章をベースに作っているそうです。「そういったやり方は本当にクールな作曲方法だと思ってる。僕はジャズやインプロヴァイズド・ミュージックの一般的な形式から逃れたかったんだ。」とのこと。
初めて彼の音源を聴いたとき、よく練って構築されている作品だなと感じましたが、一度言語化されたイメージを昇華させて作られているということを聞いて合点がいきました。構成もプレイもどちらかというとクールなアプローチなのですが、反復するシンプルなリズムに中に時おり見せるエモーショナルな一面は、血の中に宿っているものを感じさせます。私が好きなブッカー・リトルから影響を受けたと公言している通り、とくに初期の作品にそれが感じられるのも高ポイント(^^)
また、彼はブラック・ライヴズ・マターに対する関心が高く、オークランドで警官に射殺された黒人男性の名前を曲のタイトルにしたりしています。知的でクールな印象の彼ですが、社会的なメッセージを作品に込めて発信するところは、やはりヒップホップ世代なのだなと。
現在までにリリースされた彼のリーダーアルバムは6枚。すべてSpotifyにラインナップされています。まだ5〜10回くらいしか聴いていませんが、どのアルバムも聴き込むだけの価値があると感じる作品ばかり。アキンムシーレには実際かなりコーフンさせられています。時代を超えて評価される作品もたしかに素晴らしいのですが、やはり、今を生きるアーティストが今を感じて作った作品に触れることも必要なのだと再認識した次第でした。
こちらはアキンムシーレが、テナーサックス奏者のベン・ウェンデルのプロジェクトに参加した動画。こちらもわりと好きなので貼っておきます。
]]>
いつの頃からかテレビにハードディスクが付いて、たくさんの番組を録りためておくことが出来るようになりました。録画一覧の中から、その日の気分に合わせて観る番組を選べるのはとてもありがたいです。
心身が疲れて帰った日には、何も考えずに笑って観られるバラエティやドラマを観ることが多いのですが、もう少し疲れたほうが良く眠れそうなときには少しおカタい番組にも挑戦します。
先日の夜は、ずいぶん前に放映されたNHKスペシャルの「見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅〜」を見ました。
昨年の4月に亡くなった立花隆。生物学、環境問題、医療、宇宙、臨死体験、政治、経済、哲学など、知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから、”知の巨人”とも呼ばれていました。本人は「勉強が仕事です」と笑っていたようです。
彼は1974年に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表して田中角栄首相の退陣のきっかけを作り、その名を世に知らしめました。私が読んだ彼の著書は学生時代に「日本共産党の研究」1冊だけ。隠された事実や見過ごされがちな矛盾にするどい切り口で迫っており、出版当初はその内容について共産党と大論争になったと記憶しています。ただ、私は彼の著作よりも人間としての彼自身に興味をそそられていましたので、今回の番組を見るのを楽しみにしていました。
番組を見て印象に残った彼の言葉をいくつか紹介したいと思います。
「竹やぶとは、竹はぜんぶ地下茎で繋がっている。竹がある山は、ひと山ぜんぶでひとつの植物。人間の知的な営みも地下で繋がっている。頭の中に取り込まれたことが地下茎に送られ、人間の知識の体系の一部になる。」
「あらゆる知識が細分化し断片化して、ありとあらゆる専門家が断片のことしか知らない。断片化した知を総合する方向に向かわなければならない。自分を教養人に育てられるかどうかは、自分自身の意思と能力と努力次第」
そして私自身も常々同じように考えていて、強く共感したのがこの言葉でした。
「人間の存在、あるいは人間が作り出す文化をどういう視点から捉えるかという問題。哲学的な根本的なところが、人類史の中で誰も回答していない。回答できない。学問の中でもじつはそこがいちばんおもしろい。」
私は、おそらくこの”文化”という単語の中には”歴史”も含まれるのだと考えます。テクノロジーの進歩や金儲けのために動員されている世界中の優秀な頭脳を、世界平和のために結集できれば今とは少しちがう未来に繋げられるのではないかと思うのです。
また、その言葉よりももっと強く共感したのが、晩年に家族に打ち明けた彼の望みです。
「墓も戒名もいらない。遺体はゴミとして捨てて欲しい」
私自身も息子たちには、「骨はトイレに流してほしい」と言ってあります。もちろん法律的に許されないことであることは理解していますが、いっぺんに流さなければ大丈夫かと(^^; まあ親にそう言われても、かんたんに希望に沿えるものではないとは思いますが、、
番組では、立花氏がなぜそういう希望を持つに至ったかは紹介されていませんでした。私の場合は、人間を生きることはもう充分楽しんだので、死後は人間というかたちから解放されてすっかり宇宙に同化したいと思うです。骨壺などに閉じ込められるのもまっぴらですし、家族をはじめ生前自分に関わってくれた人々の記憶からも消え去りたいくらいです。80代の患者さまにそんな話をすると、「もっと齢を取って本当にその日が近づいて来ると、またいろいろ執着が生まれて来たりするのよ」と笑われましたっけ。
さておき、知の巨人と呼ばれた人が辿り着いた考え方と、勉強が嫌いで直感だけでこの齢まで生きて来た落第生の私の考え方に、ちょっと似たところがあるのがおもしろいなと思った次第でした。
]]>
ここのところ、週末の空き時間には次男とオートバイのメンテナンスをして過ごすことが多くなっています。
やはり生産されてから20年が経ち、87,000kmも走ると手を入れなければならない箇所が増えて来ます。
今回は後輪のスイングアームのピボットシャフト。
図の9がピボットシャフトです。ピボットシャフトは図の2の中空のブッシュの中を貫通するかたちで組まれています。
図の3はニードルベアリング。4はグリス漏れを防ぐシール。5はブッシュの両端のスラストベアリングです。
ピボットシャフトの両端数センチは中空構造で、先端部のグリスニップルから注入したグリスがシャフトの中空部分に開いた直径2mmほどの穴を通ってブッシュに沁みだし、同じようにブッシュに開いた穴から図の1のスイングアームの内面やその両端のニードルベアリングに行きわたるように設計されています。よく考えられた構造なのですが、じつは設計時の目論見ほどうまく機能しないことも多いようで、ブッシュとシャフトが固着してピボットシャフトが抜けなくなり、数時間がかりでシャフトをスイングアームごと切断しなければならなくなった例がネットにいくつもアップされていました。
うちのSRを中古で購入した販売店からはピボットシャフトのメンテの指示は受けておらず、ノーメンテで4年間乗ってしまいました。だってグリスニップルは取り外し式でツールボックスのドアに隠されてるんですもの、そら気がつきませんよねえ。
いちおう今回グリスアップを試みましたが、古いグリスが固まってどこかの穴を塞いでいるのかゴムのシールがグリスの圧に耐えられずに抜けてしまって、注入したほとんどのグリスが地面に落ちてしまう状態でした。
後輪を外し、スイングアームをフリーの状態にしたあとラスペネを吹いて、祈るような気持ちでプラハンでピボットシャフトを全力で何度も叩いてみましたが、びくともしませんでした。この時点で親子そろってかなり絶望的な気持ちに、、
ディスクグラインダーは持っていますが音量がものすごいので、わが家の住宅事情ではとても長時間は作業出来ません。次男と「現在どうにか乗れてる状態だから、このまま組み直して後輪にガタが出始めたら廃車にするか」などど切ない相談を10分くらいしたあと、ラスペネを追加してもう一度叩いてみたところ、なんと3mmくらい動きました。その後追いラスペネを食わせながら少しづつ叩いて行き、ついに完全に抜けました!!!
車体から外したスイングアーム。みごとにシールが外れています。
予想通りブッシュの穴はふさがっていました。
サイドスタンドを掛けたときに車体は左側に傾いだ状態。左側のスイングアーム内には水が溜まるのでしょう、ニードルベアリングは左側だけが錆びついて機能しなくなり、ブッシュのベアリングと接する箇所は熱で虫食っていました。
本来の使い方ではないのですが、めんどくさいので長めのボルトでプーラーを直接叩いてニードルベアリングを抜きます。
新しいベアリングを打ち込みました。あたり前だけど動きがスルッスルで気持ちいい〜。
シャフト本体の損傷は軽微でしたので磨いて再利用しましたが、ほかの部品はぜんぶ新調。シャフトの向こう側から注入したグリスがこちら側に押し出されましたので、いちおう全体にグリスが充填されたということで今回のメンテは終了です。
次男は作業中に、「もしオレに子どもが生まれたら、このSRに乗せたいわなぁ」なんて言っていましたが、さすがにそこまでこのSRの寿命を持たせるのははしんどい気がします、、てか、おま結婚する気あったの!?(@_@)
]]>
このゴールデンウィーク、代々木公園ではカンボジアフェスティバルが開催されました。
休診の水曜日には予定がありませんでしたので、ひとりでふらっと出かけて来ました。
昨年、一昨年はコロナ禍で中止になってしまい、ひさしぶりの開催とのこと。カンボジア好きを自認している私ですが、例年の開催日はいつも予定が合わず、今回初めて来ることが出来ました。
伝統舞踊のアプサラダンス。楽器の編成や音階、踊りの動きの質も、タイやバリ島の伝統舞踊に通じる要素が多いように感じられます。東南アジアの音楽は、神話やアニミズムを基調とする土着の文化のうえに、仏教、ヒンドゥー教、またインド古代音楽の影響を受けて形成されました。その後には中国系、イスラム系、さらには西欧系のエッセンスや楽器も加わり、各民族独自の音楽や芸能を展開させていったとのこと。インドシナ半島に位置するカンボジアの音楽・舞踊ももちろんその体系の中に含まれます。
数人の女性で踊ることの多いアプサラダンスですが、この日の舞台はこの美しい女性ひとりでした。ほかの観客のみなさんにはすこし寂しいステージだったかもしれませんが、仕事柄身体の使い方が気になる私は、集中して動きを観察出来て勉強になりました。
こちらの写真は私が2018年にプノンペンを訪れた際に見学させて頂いた「アプサラ・アート・アソシエーション」の練習風景。「A.A.A」は、長く続いた内戦やポルポト政権下の弾圧により廃れかけていた伝統舞踊のアプサラダンスを復活させるために設立されたNGOです。主宰の先生のお話では、貧困に苦しむ少女たちの自立の手助けも設立の目的のひとつだったとうかがいました。
さて昼ご飯。ほんとうは”クイティウ”という米緬が食べたかったのですが、みなさん考えることは同じようで、クイティウを販売している屋台は長蛇の列。食べ物のために行列することが苦手な私は、おとなりのお店で”ノムバンチョック”という緬と、定番のアンコールビールを注文。ノムバンチョックもクイティウと同じく米粉で出来た緬なのですが、あまり歯ごたえがない素麺みたいな感じ。それでも風味はやはり現地のもの。さわやかなアンコールビールと相まって、つかの間エキゾチックな気分を味わえました。
この日はかなり暑くなりました。人間にとっては蒸さなくて気持ちの良い暑さだったのですが、犬にはしんどかったようで、フレンチブルくんは日陰にヘタりこんでいましたっけ。
こちらはミーアキャット。名前はよく聞きますが、この動物についての知識がなかったので検索してみました。
マングース科の食肉類。死因の20%ちかくが同種間殺しで哺乳類の中では最凶なのだとか。見かけによらないなあ(^^;
ちなみに人間の同種間殺しは約2%。ただ、人間同士の殺し合いは統計には表せない意味を含んでしまいますよね。
ひさしぶりに街に出て疲れてしまいました。若い頃は人混み全然平気だったのに、やはり齢ですねえ(^^;
帰宅後は自分ちの庭のような、自宅前の公園でひと息。やはりここがいちばん和みます。
今度の乾季にはカンボジアに旅行できるかしら、なんてしばし妄想したあとゆっくりお風呂しました。
]]>
1978年にヤマハから発売されたSR400。残念ながらABSなどの安全装備の義務化や、より厳しくなった排ガス規制をクリア出来ず、昨年3月惜しまれながら生産終了しました。足かけ43年間も生産され続けたロングセラーでした。
わが家の2003年型SR400は86,000kmを超えてまだまだ元気。もうしばらくは活躍してくれそうです。
鼓動感のある乗り味や、ヤマハらしい知的で繊細なシルエット。そのすべてに愛着があるのですが、キャブ時代のSRにはひとつだけ宿命的に抱えている問題点がありました。クラッチが異常に重いのです。若い頃は50kgを超えていた私の握力も年齢と共にだんだん衰えて、渋滞にハマると指がつらくなります。もともとSR400のエンジンはXT500というオフロードバイクのエンジンをスケールダウンして搭載してあり、クラッチも500ccのパワーに対応したオーバースペックなもの。その重さは昔から有名でした。
2009年に気化器がフューエルインジェクション化されたのを機会に、クラッチスプリングもパワーに見合った適正な仕様に変更され、かなり軽くなったと耳にしてはいました。
雨でサイクリングに出かけられなかった日曜日、共同オーナーの次男と一緒に、買い置いておいた仕様変更後のクラッチスプリングに交換する作業にとりかかりました。
クラッチ側のクランクケースを開けると300ccくらいオイルが漏れて来ました。ヌルヌルの手でクラッチスプリングを抜きます。
スプリングを抜いた画。ガスケットはわりとうまく剥がれました。最上部と下部左のボルト穴付近にすこし破片が残っていますが、スクレーパーでかんたんにこそげ取れました。
右側が取り外した旧型のスプリングで、左側が新しく取り付ける対策品。長さがぜんぜん違います。
プッシュロッドも交換。左側が取り外したもので右が新品。古い方は先端部がすり減って平坦になっていました。
クラッチスプリングを換えたあと、試乗してみてびっくり。クラッチが原付かと思うほどの軽さになりました。
もっと早くやれば良かった(^^;
息子たちもすっかり大人、てかふたりともアラサー。生活のリズムも変わり、ゆっくり話す機会も減ってしまいました。ああだこうだ言いながらいっしょにバイクいじりをする時間は、きっと貴重なものなのだろうな、とありがたい気持ちで楽しんでいます。
とはいえ作業終了後はいつも、しばらく腰が伸びなくて往生するわけなのですが(>_<)
]]>
おかげさまで、当院はこの4月10日で開業20周年を迎えました。
記念日、誕生日、命日などにほとんど意味を感じない私ですから、当然今回の開業記念日もすっかり忘れていました。しかし、何年か前の同じ日に、うっかり開業記念日を思い出してフェイスブックに投稿していたらしく、「〇〇年前の思い出」としてタイムラインに表示されたのです。20年ともなると冷めた私でもさすがに少し心が動きました。地域のみなさまはじめ、今まで支えて下さった方々には感謝の気持ちしかありません。身体が動くうちはもうしばらく頑張って行きたいと思いますので、この先もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、その4月10日は日曜日でした。20周年記念日ということで山方面へサイクリングに出かけて来ました(←毎週行っとるやんけ
”八徳の一本桜”
街の桜にはそれほどアガらない私ですが、この桜だけは特別。だいたい毎年観に来ています。
奥武蔵の春の風景に自然に溶け込む山桜ではなく、ちょっと異質なソメイヨシノがポツンと佇む姿は、田舎の小学校に都会の子が転校してきたような、ふしぎな違和感があっておもしろく感じられるのです。
もう散ってしまっているだろうと覚悟して来てみましたが、ちょうど見頃だったようです♡
なんか自転車入れて撮るやつ、みんなやってるので真似してみました。
林道吾野飛村線の上り、振り返るとちょうど秩父へ向かう特急ラビューが通りかかりました。
きれいな枝垂桜だな、と思って足をとめた資材置き場。桜の足元にシュールなオブジェがいくつも。
そのとなりには裸婦とウサギと腹の出たおじさんの像??? なんだか長居するのがこわくなってすぐ退散しました(^^;
中藤川へ下りて来たところで、子の権現方面から下って来たチームメイトのたっちゃんとバッタリ。最近、自転車を新調しようかスズキのカタナ1000を買おうか迷ったらしいのですが、自転車を選択したとのこと。このスペシャの自転車、カタナ1000よりもお高いんですって!(◎_◎)
仁田山峠はいまだ一昨年の台風被害の補修が進まず通行止め。行き止まり手前の桜並木でライダーが道路の真ん中にオートバイを停めて撮影していました。
写真に舞う花びらが写っています。うまく見えるといいのですが。
この日は季節外れの夏日になりました。ウシさんも日陰でお昼寝。
さて、21年目も頑張って行くどー!(^.^)/
]]>
あいかわらずアマゾン・プライムビデオにはお世話になっています。ラインナップの中には、メッセージ性が強すぎたり制作規模が小さ過ぎたりして、欧米の大手配給会社が手を出せない作品もたくさん。ミニシアター系の作品が好きな私には宝の山です。
大まかな地理や歴史は知っていても、そこに住む人々の暮らしや感受性に触れる機会がない国の作品は、いつも新鮮な衝撃を与えてくれます。これまでイスラエル、パレスチナ、クロアチア、ロシア、チェコ、スウェーデン、フィンランド、グアテマラ、中国、ベトナム、カンボジアなどで制作された作品を鑑賞して来ました。
今回観たのは、ハンガリーの女性監督イルディコー・エニエディの「心と体と」(2017)と、ジョージアのザザ・ウルシャゼ監督の「みかんの丘」(2016)の2作品。時節柄、どうしても東欧や旧ソ連方面に関心が向いてしまいます。どちらもすばらしい映画でした。リピートしてしまうかもです。
「心と体と」は、ASDと思われるコミュニケーションが不自由な女性が主人公。ブダペストの郊外にある食肉工場に、品質検査官の産休代理として派遣された彼女。会社内で行われたある調査で夢の内容を報告する項目があり、ふとしたきっかけで左腕が不自由な上司の中年男性と自分がまったく同じ夢を共有していたことを知ります。ふたりは夢の中でそれぞれメス鹿とオス鹿となり、雪の森で交流するというもの。そこには性的なふれあいはありません。俗世から切り離された静謐な世界で言葉の要らない完璧なコミュニケーションが成立。夢共有の事実を知ってから、彼女の中で少しづつ何かが変化して行きます。
女性監督ならではの心の機微の描写や、東欧らしい生真面目な空気感の日常が印象的。夢の中に出て来る雪の中の鹿たちの映像は息を飲むほど美しかったです。
「みかんの丘」は、現在も解決していないアブハジア問題の、もっとも紛争が激化していた頃のアブハジアが舞台。1991年のソ連崩壊に前後してグルジア(現ジョージア)が独立した際、近接する旧アブハジアを併合しようとして紛争が勃発。彼の地でみかん畑を営む老人の家の目の前で戦闘が始まり、敵対する軍の兵士がそれぞれ1人づつ意識不明のまま生き残ります。老人はふたりを自宅で看病。隙あらば殺し合おうとするふたりですが、恩人の家の中では殺さないと約束させられます。そして怪我の回復まで同じ屋根の下で過ごすうちに、お互いへの人間としての関心が生まれていきます。相手を殺すことと分かりあうこと、自らの尊厳を守るためにはどちらを優先するべきなのか葛藤するふたり。
実際の戦闘シーンはほんの少しだけの人間ドラマなので、ここのところ毎日ウクライナの悲惨な映像を見てつらくなっている人でも大丈夫だと思われます(^^)
歴史上、大きな帝国が崩壊する際には血なまぐさい紛争が起こって来ました。今回のウクライナ戦争もそうですが、ジョージアはアブハジアのほかにも南オセチア問題も抱えていますし、チェチェンやダゲスタン、ナゴルノ・カラバフなど、まだまだキナ臭い地域がいくつもあります。
これからの時代、人口が減少し続けるであろうわが国では、労働力の不足を外国出身の人たちに依存する割合がますます高くなっていくことになると思います。日本にやってくる彼らは、新しい環境に順応するためにたいへんな努力をされていると思いますが、受け入れる私たちも、さまざまな民族・宗教・イデオロギーなどに対する配慮が出来るように自分をトレーニングする必要があります。そろそろ老境にさしかかり、少しづつ頭が固くなっていくであろう行く私自身も、多様性な価値観に触れる努力を継続して行きたいと思います。
]]>
戦火の中で怖ろしい思いをしている彼の地の人々に思いを致し、最新情報を追ってはそのたび心を痛めている方が多いのではないでしょうか。かく言う私もそのひとりです。
たまには画面から離れて過ごさないと心のバランスが崩れてしまいそうなので、日曜日にはいつものようにサイクリングに出かけて来ました。
東京都・埼玉県ともに未だ蔓延防止重点措置期間。都県境を越える移動は自粛するべきなのですが、ついうっかりって事もありますよねえ(^^; ということで今週も山方面へ。
この時期の越生あたりはどこを走っても梅の香りが漂っており、寒さと世相でこわばってしまっていた心身をやさしくほぐしてくれるようです。
弓立山からの風景。もやっているのは花粉じゃなくて春霞だと思い込んで眺めました。
都幾川沿いの小さな牧場。
路肩で見つけたくちなしの実。子どもの頃、ときどきヒヨドリやツグミなどの野鳥が啄んでいるのを見かけましたっけ。
民家から百メートルほど上ったあたりに佇む猫。こちらが立ち止まっても逃げません。まさか捨てられたのでは、と後ろ髪を引かれながらも、「がんばって生きるんだよ」と声をかけて立ち去ってしまいました、、
奥武蔵の山は尾根の北斜面が落葉広葉樹の林になっていることが多く、この時季には木々の芽がほころび始めて山全体があずき色に煙っているように見えます。
こんな感じ。
標高800mあたりからは、まだところどころ雪が残っていますので、下りは要注意です。
こちらは先週の写真。もっと標高の低い道でもこれくらい凍結している箇所がありました。
久通川沿いの崖に穿たれた穴のお地蔵さま。いつも通る道なのに今までまったく気づきませんでした。
おにぎり山。ほんとうの名前は知りませんw
名栗みち、庚申の湧水を汲もうと自転車を停めて見下ろしたら、ガードレール下の小さな畑がちょっと可愛かったので一枚。
飯能河原。たしかにこの日の最高気温は20℃近いとは聞いていましたが、さすがに水遊びには早いよ少年たち(^^; 風邪ひかないといいけど。
やはり身体を動かすとすこし心が軽くなりました。
新型コロナウィルスの世界的な流行に続く今回の戦争勃発は、あらためて人間を生きるということについて考えさせられる機会になりました。
どうか世界中のすべての魂にやすらぎがありますように。
]]>
昨年末から緊張が高まっていたウクライナ危機。ロシアは一昨日、親ロシア派の住民が多いドネツク・ルガンスクの独立を承認。そしてついに今日、首都キエフやハリコフのウクライナ軍施設へのミサイル攻撃を始めてしまったとのこと。とても心配です。
テレビの報道番組におけるウクライナ危機の解説は米欧政府側寄りのものばかりですが、ロシア国民に対するインタビューでは、今回の危機の責任がロシアにあると考えている人の割合はわずか4%なのだとか。今回の危機は損得ではなく、おもに安全保障上の理由で始まったもの。2014年あたりからの経過を考えるとそれぞれの側にそれぞれの言い分があり、どちらが正しいというものでもなさそう。いずれにせよ、昔から強大な勢力の狭間で何度も辛い思いをして来たウクライナの人々のことを思うと、たくさんの血が流れずに収束することを祈るのみです。
「ニュースを見るには歴史の勉強から」ということで、現在のウクライナ人の歴史観に強い影響を及ぼしたであろう二つの出来事についてもう少し深く勉強しようと、1本の映画を見て1冊の本を読みました。
映画は「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」。本は岩波新書の「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(大木毅)。です。
映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は英国・ウクライナ・ポーランドの合作。若きイギリス人記者ガレス・ジョーンズの伝記映画です。彼は、世界恐慌の中でソ連だけが好景気であることに疑問を抱き、ウクライナに潜入。スターリンによって人為的に引き起こされた”ホロドモール”と呼ばれる飢饉(400万人から1,450万人が死亡)を取材し、その事実を発表。多くの新聞に掲載されました。本編の中では、親を失った幼い兄弟たちが人肉食をするシーンも、、映画はジョーンズによるホロドモールの告発シーンで終わりますが、その後彼は日本占領下のモンゴルを取材中に誘拐され、29才の若さで殺されてしまいます。彼の死にはソビエトNKVDの関与が疑われています。
「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」は2019年7月に刊行された本。翌年の2月には発行部数が12万部を超えたていたそうです。
歴史やミリタリー好きのコア層以外の人たちだけでこれほどのヒットになるとは思えません。久しく軍事に無関心だった日本の一般層が、クリミア併合以降のロシアや、軍事大国化した中国の現在に危機感を持って読んだのでしょう。
独ソ戦では、開戦半年で数百万人のソ連軍兵士が捕虜になります。戦況によるものより、スターリニズムに対する拒否意識から、自ら進んで敵に投降する者の方が多かったようです。とくにホロドモールを経験したウクライナでは、ドイツ軍をスターリン体制からの解放者として歓迎したのだとか。その後の彼らにはナチスによる苛烈な待遇が待っていたわけですが、、
勢いでほかにも独ソ戦に関わった国の映画を数本観ました。ロシア映画の「T-34 レジェンド オブ ウォー」、「AK47 最強の銃 誕生の秘密」。それとフィンランド映画の「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」。これは1939年のソ連侵攻、いわゆる”冬戦争”で自国のカレリア地方を失ったフィンランドが、国の全人口400万人のうち50万人の軍を組織して1941年に領土奪還をめざした”継続戦争”での末端の兵士たちを描いた作品です。いちどは当該地域の奪還に成功したものの、ソ連軍の反攻に遭い結果的には現在も割譲されたままになっています。
戦争や紛争は、おそらく人間が背負った宿命なのでしょう。いつも世界中のどこかで起こっており、途絶えることがありません。
日本は最後に経験した戦争が終わって76年経ちました。当時を経験した人たちもだんだん少なくなって、戦争のリアリティは薄らぐ一方。それはもちろん良いことなのですが、いつかまた自分たちにも重要な判断を迫られる時が来ないとも限りません。もちろんそんな日が来ないことを祈るばかりですが、、
]]>
3年前、43才の若さで病気で亡くなってしまった自転車のチームメイトのムッシュ。元気な頃はマダムとふたり、持ち前の明るさで積極的にチームを盛り上げてくれていました。そんな彼も闘病生活が長くなると自転車に乗ることがキツくなり、晩年にはマダムと一緒にオートバイに乗って時間を共有していました。
お酒も飲まず着道楽だった彼は、自転車ウェアだけでなくオートバイのウェアも気に入った物しか身に着けなかったようです。
先日、マダムから「ムッシュのライディングウェアを着てみてもらえませんか?」との申し出があり、治療がてら院に持ってきてもらったら、その数アウター4点、パンツ2点、ブーツ2点。そのほとんどが新品同様でした。かなり症状が進んでからも、ふたたび思う存分走れる日を夢見てクシタニの直営店に何度も足を運んだムッシュ。その時間が心のお薬になっていたようです。
持参してもらった中で、私にサイズが合ったヘビーウィンター用のアウターと革パンを1点ずつ格安で引き取らせて頂き、残りはヤフオクに。マダムは出品未経験とのことでしたので私が代行しました。クシタニのウェアは高品質・高価格・小ロット生産なので、中古で出品しても最低でも半額以上で取引されています。ほんとうはムッシュの息子くんが着れればいちばん良かったのですが、身長が高すぎてつんつるてんになっちゃうんだとか(^^;
私と次男は、ブーツとグラブとヘルメット以外はオートバイもウェアも共用。ふたりでムッシュの形見を大切に着させてもらいます。
立体的な作りなのでそれほどゴワついて見えませんが、ダウンのインナーが付いており、それを外せば春・秋もイケます。
クシタニは皮革が有名ですがテキスタイルのウェアも細部まで作り込まれていて、とても着心地が良いのです。
脊椎パッドのシルエットが見えてますが、肘にもパッドあり。
スウェード地のパンツ。クシタニの皮革はいつの時代も絶品。履き心地は布と変わらないくらいしなやか。もちろんニーパッドが入ってます。
私が40年前に買ったクシタニの皮ツナギ。ニンジャ400に乗っているムキムキ系の長男はムリですが、次男は身長・体重が私とまったく同じなので、彼に譲りました。
6年前、次男と半分ずつ出し合って中古で買ったキャブ車のSR400。私のようなじいさんが乗るにはちょっと元気が良すぎる音量のマフラーですが、音質は気に入ってます。
購入時の走行距離は3万kmでした。気が向けば下道でどこまでも走ってしまう次男のせいで、購入3年目にはオドメーターは75,000kmを表示。その後彼は社会人になってペースが落ち、現在は85,000km。まだあと数年は乗れそうです。
自転車で奥武蔵の峠を走っているとき、ムッシュと一緒に走ったコースを通ると当時のことを思い出します。病院にお見舞いに行ったときには、回復したらオートバイでもツーリングに行く約束をしましたっけ。暖かくなったら彼が着ていたウェアで山方面走ってみるかな。
]]>
われら年寄りの日曜日の楽しみ、NHK大河ドラマ。昨年の「青天を衝け」に引き続き、今年の「鎌倉殿の十三人」も観ています。
歴史は受験やエンタメのネタではなく、人類が過去に起こしたあやまちを繰り返さないために学ぶものと分かってはいても、ついつい観ちゃうんですですよね(^^;
高校では日本史を選択しましたので鎌倉時代の大まかな年表は頭に入ってはいますが、のちの評定衆の原型となった”十三人の合議制”のメンバーについては半分くらいの名前しか記憶にありませんでした。
そこで、鎌倉幕府の源氏三代とそれを取り巻く東国武士団の興亡を描いて1964年に直木賞を受賞した、永井路子の「炎環」を読んで予習することにしました。「炎環」は1979年のNHKの大河ドラマ「草燃える」の原作のひとつにもなりましたが、当時私はもう大学生。アパート暮らしでとてもテレビを買う余裕はありませんでした。なので放送は観ていません。
歴史小説は、純文学のように人間そのものを掘り下げるのではなく人間同士の”関係性”を描いたものが多いので、読み物としておもしろいのですがやはりちょっと物足りなくて、高校を卒業してからはほとんど読んでいませんでしたので、かなり久しぶりでした。
「炎環」は四篇の短編から成っています。阿野全成、梶原景時、北条保子、北条義時の4人の主人公がそれぞれ鎌倉幕府の権力闘争にどう関わっていたのかを、吾妻鏡・愚管抄などの史実をもとに、登場人物の心理を作者が独自の解釈で描き出していきます。
男性の作家なら歴史上の人物、あるいは歴史そのものへの畏れやリスペクトから、踏み込むのをためらってしまいそうなドロドロの恨み・妬み・嫉みなどの描写は、まるで人の心が透けて見えているようで、「そうかも知れない、いやそうだったに違いない」と思えてしまいます。歴史好きの方でなくても、人間ドラマとしてかなりおもしろく読めると思います。
さて、「鎌倉殿の十三人」は現在第4話まで放送されました。ついに頼朝が北条家の助けを得て挙兵。次回は平家方の山木兼隆と堤高遠の屋敷を襲撃するところから始まります。ここまでのお話は三谷幸喜の脚本独特のコミカルな演出・演技で楽しめましたが、ここから始まる血なまぐさい展開をどう表現していくのでしょう。そういえば、同じ戦争物でも戦国時代くらいまでの出来事はエンタメ化されても楽しめますが、近代の戦争を面白おかしくするにはまだ生々しすぎますよね。歴女のみなさんも新選組くらいまではキャラ化出来ても、さすがに山下泰文とか南雲忠一はしんどいのではないでしょうか。どのあたりに境界線があるのか、あるいはそれがなぜなのかは興味深いところです。
]]>
朝の起き抜け、私がリビングで最初にするのはテレビのスイッチを入れること。齢のせいか朝イチでCMのハイテンションなトーンを聞くのがしんどくなって、ここ10年くらいはNHKの「おはよう日本」を見ています。
10日ほど前のこと、番組内で「生物はなぜ死ぬのか」という本が紹介されました。桑子アナの「”死”というものを、遺伝子や生き物の進化といった生物学の視点から紐解いており、読めば死生観が変わるかも」という言葉を聞いておもしろそうだなと思い、ポチろうとしましたが、番組の影響で予約が殺到したのか1週間ほどの待ちでした。
やっと届いた本書、新書版で200頁ほどでしたので2日で読み終えました。結論から言うと私の死生観には何も変化はありませんでした(^^;
出版社が帯に書いた「死生観云々」の思わせぶりな文言がひとり歩きしてしまっただけで内容に哲学的な要素はなく、生物の死の必然性について、まるで池上彰さんのように分かりやすく解説してくれてある本でした。
本の前半部の内容は、偶然の積み重ねによって地球に生物が誕生し、”進化”によって現在に至っているというハナシで、リボソームやらミトコンドリアやらDNAの構造・機能の説明にページが割かれていました。高校の生物?、?を履修した人には懐かしく復習できますし、そうでない方は興味深く勉強出来ると思います。と言ってはみたものの、この本10万部を超える大ヒットだそうですが、めんどくさくて前半部を読み飛ばした方も多いのではないかしら(^^;
後半部では、なぜ生物には老化と死が必要なのかということに踏み込んで行きます。生物が”進化”、すなわち”変化と選択”を繰り返して種を存続させていくためには、古い個体が死んで行く必要があるということを、生物学的に説明してあります。しかしそんなことは説明されなくてもみなさん気づいていますよねえ。
ちょっと悪ノリした筆者は、寿命を延ばしたり機能的な若返りの可能性が高い薬やサプリについても言及しています。糖尿病の治療薬メトホルミン、免疫抑制剤のラパマイシン。Sirタンパク質に結合してその働きを助ける補酵素NAD+の前駆体であるNMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド)。これらの長寿化・若返り効果にはそれぞれきちんと根拠が示されています。悪ノリなら負けていない私は、当院の高齢者の患者さま10人以上に「長生きの薬があるらしいのですが、飲んでみたいですか?」と聞いてみました。答えは全員「ノー」。私自身も長生きはまっぴらです(^^;
この本の中で私がいちばん興味を引かれたのは、寿命についての項で紹介されていたハダカデバネズミのことでした。以前にテレビで見たことがある動物で、そのときからちょっと気になってはいたのです。
体長10cmほどとハツカネズミと同じくらいの大きさなのですが、その寿命はハツカネズミの10倍以上でおよそ30年。アフリカの乾燥した地域にアリの巣のような穴を掘りめぐらして、その中で一生を過ごします。哺乳類にはめずらしくミツバチやアリのように真社会性(女王を中心とした完全な分業制)を取る生き物で、省エネに徹した生態です。
愛嬌のあるルックスにはすっかり癒されました。おまけに奴らは昼寝するんだとか。なんと30年以上も昼寝を欠かさない私の仲間ではないですか。上野動物園で飼育されているようですし、園内ではぬいぐるみも販売されてるのだとか。行ってみなくては!
]]>
新年あけましておめでとうございます。
予想されたとおり、感染力が強いと言われているオミクロン株はあっという間に感染者を増やしてしまいましたね。
もうしばらくは油断せずに気をつけて過ごす必要がありそうです(-"-)
さて、みなさま良いお正月を過ごされたでしょうか。私は暮れにコルトレーンの映画を観たおかげで、すっかり調った心で年を越しました。 元旦はさっそく自転車で走り初め。そして2日と3日は、毎年楽しみにしている箱根駅伝観戦でした。
青山学院大学は強かったですねえ。私の母校の駒澤大学もそこそこ前評判は高かったのですが、選手層の厚さは青山学院が群を抜いていましたので、結果は力通りだったと思います。それでも母校の優勝に少しは可能性を感じていましたので、ゴールシーンを見たあとは調っていたはずの心がすこし凹んでしまい、ゴロゴロしていたソファから起き上がる気になりませんでした。
どうにか気分を変えようとゴロゴロのままアマプラのおすすめを物色していたら、以前から気になっていた映画がリストに載っていました。
それは「キース・ヘリング〜ストリート・アート・ボーイ」と「バックコーラスの歌姫たち」の2本。
キース・ヘリングは私と同世代で、1980年代のポップアート界を代表するアーティスト。線画とポップな色調で構成された、親しみやすい作風の中に強いメッセージが込められていて、世界中の若者から支持されました。
映画では、少年時代から鋭い視点で社会を観察して、アートのみならず自身の生き方でメッセージを発信し続けたキースの、太く短い人生が描かれていました。
ちなみに彼はグレイトフル・デッドの大ファンで、クリントン元大統領やスティーブ・ジョブズなどと同じ、いわゆる”デッドヘッズ”でした。私もいまだにオートバイに乗るときには、デッド・ベアがデザインされたBucoのヘルメットを被っています。
「バックコーラスの歌姫たち」は、2014年のアカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品です。
レイ・チャールズやスティービー・ワンダー、ローリング・ストーンズやスティング、マイケル・ジャクソンなどを陰で支えたバックシンガーたちに光を当てた映画。
30分ほど鑑賞したあたり、メリー・クレイトンのインタビュー中に、聴き慣れたイントロが聴こえて来ました。ローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」です。その瞬間、50年近く私が解かずに封印していた謎が一瞬で解けてしまい、知らず涙があふれていました。というのも「ギミー・シェルター」は私がローリングストーンズの中でいちばん好きな曲。今でも始業準備中などによくかけているのですが、コーラスの女性の声が大好きで何百回聴いてもそのたびにシビれます。しかし、それが誰の声なのかはあえて検索しないでいました。
当時母国を離れ、黒人女性コーラスの需要の多かったイギリスで暮らしていたメリー・クレイトンは妊娠中でした。パジャマ姿で頭にはカーラーを巻いてくつろいでいた深夜、マネージャーから「ローリングなんちゃら、ってバンドがコーラス探してるんだけど来れる?」という電話。ミックはレコーディング中に「レイプ アンド マーダー・・・」の歌詞を女性に歌って欲しいというアイデアを思いついたそうで、メリーは寝間着・カーラー姿のまま急行しました。ストーンズとメリーはその夜が初対面。朝になって出来上がった録音を聴いたミックは「こりゃスゲェ」と。
映画の中ではそのメリーの歌ったトラックだけが流れるシーンがあるのですが、巻き戻して10回以上観てはそのたび号泣してしまいました(号泣は盛り過ぎたな(^^;
その後、ストーンズのバックコーラスはリサ・フィッシャーに受け継がれました。リサもこの映画の主人公の一人。映画の中の彼女は、年月を経て↓の動画の頃とはずいぶん体型が変わりましたが、その表情からは良い齢の重ね方をしたことが伝わって来ます。
2本の映画を観終わったとき、箱根駅伝で凹んでいた私はもうそこにはいませんでした。
]]>
いよいよ今年も暮れようとしています。昨年に引き続き今年もコロナにやられましたね。ワクチンのおかげで感染者数が激減したあとは社会の動揺も鎮まっていたものの、オミクロン株の出現でまた不安が広がりつつあります。今までの変異株に比べてそれほど悪性度は高くなさそうですが、感染力が強いとのことなので油断は出来ませんね。
当院は大晦日の今日からお休みを頂いております。例年正月休みと言っても、テレビでの駅伝観戦くらいしか予定がない私。去る28日の朝だったか、j-waveを聴きながら始業の準備をしていたら、コルトレーンの伝記映画が上映中との紹介がありました。
私の中でコルトレーンは単なる1人のジャズ・プレイヤーではありません。素晴らしいミュージシャンは星の数ほどいますが、自分固有の精神世界を持っていて、それを聴く側の私たちにも共有させてくれる人はそれほど多くありません。もちろんコルトレーンはその代表格。もう40年以上聴いています。
吉祥寺のアップリンクでは30日まで上映されており、1日1回しかない上映の開始時間は仕事終わりに駆け付ければ間に合うタイミング。これは呼ばれてる?となり、予約状況をチェックしたら58席のうち8席しか埋まっていませんでした。これなら感染リスクも低そうだなと予約。
駆け込み治療の患者さまも数人いらっしゃいましたが、年末で道路が空いていたおかげでカブで15分ほどで到着。なんとか上映時間に間に合いました。ただ、ガラガラの予定がまさかの満席状態。最後列から見ると、並ぶ頭の様子からそのほとんどがシニア世代であることが分かります。
映画が始まってしばらくして気がついたのは、この映画がNetflixで数年前に配信された映画であること。学生時代のバンド仲間の家に泊めてもらったとき、友人たちと鑑賞した作品そのものでした。ただ、映画館の音響で聴く演奏はテレビで聴くそれとはまったく別物に聴こえて、落胆するどころか充分満足しました。
コルトレーンは特定の宗教を妄信するわけではありませんでしたが、宗教的な境地に達することを目指して生き、その過程を音楽で表現し続けました。何も表現する手段を持たない私ですが、既存の宗教の教えに従って生きることは自分の人生を生きていることにならないような気がして、彼と同じように自力で宇宙や世界や人間を理解する境地にたどり着くことを目標にしています。
この映画を見ようと思い立ったのも、新たな年を前にして僭越ながら同じ目標を見ながら生きた先輩を身近に感じたいと思ったからです。
イメージした通り、映画を観終わった私の心はすっかり調っていました。
来たる2022年が、みなさまにとって良い年になりますよう!
]]>
先々週のサイクリング中には、「そろそろ峠道が凍結するし、今年の山方面サイクリングもこれでお終いかなぁ」なんて考えつつ走っていました。しかし幸い先週もこの日曜日も好天でしたので、少し出発時間を遅らせればどうにか奥武蔵路を走れることが出来ました。
それでもこの日の飯能市の最低気温は−4℃。いつもより1時間遅く、9時に飯能駅を出発したもののサイクルコンピューターは1℃の表示。路面状況を油断なく観察しながら走らねばです。
飯能駅からは成木街道へ。飯能市は埼玉県ですが、成木は青梅市なのでガードレールも東京都のイチョウのデザイン。
日陰は終日霜が降りたままでした。
伊豆が岳に向かう稜線。紅葉が終わったばかりの落葉樹も、あと1ヶ月も経てばアズキ色に芽吹いて春への準備が始まります。
山伏峠付近。先日の雨の日、このあたりでは少し雪が降ったのかも知れません。
正丸峠。よく見ると遠くに見渡せるビル群のそのまた向こうに新宿あたりの高層ビル群が蜃気楼のように見えます。
ここでも気温は1℃でしたが、上りで身体が温まっているのでそれほど寒さは感じません。冷えてしまうまえに補給食のおにぎりとジャムパンを押し込んで、さっさと下ってしまいます。
天目指峠へ向かう久通川沿いの道は数か所塩化カルシウムが撒いてありましたが、幸いほかに足元に気を使う箇所はほとんどありませんでした。いつもつい振り返って見てしまう天目指のクネクネ道。
何だか色のない写真ばかりになってしまったので、よそ様んちの植え込みのピラカンサなど(^^;
13時過ぎの陽が高いうちには飯能駅に着いて、うららかな陽射しが入る電車の中、半分船をこぎながら帰宅りました。
数日前のこと、フェイスブックを開いたら、タイムラインに「2年前の思い出」として2回目のカンボジア旅行時のサイクリングの写真が表示されました。
2年前のその日、私は30℃超えのプノンペンに居たのでした。よろしかったらその旅のブログも読んでみてくださいね。http://blog.matsumoto-sekkotsu.com/?eid=417
このコロナ禍が終わったら、来年の乾季にはまたカンボジアに行って、トレイルをサイクリングしたり、アンコールビールを飲りながら生胡椒の海鮮炒めを食べたり、メコン川の畔でウクレレ弾いたりしたいなぁ(*´ω`*)
]]>
例年、12月初旬ともなると木枯らし吹く寒い日が何日かあったように思うのですが、今年はわりと穏やかな初冬ですね。
とは言え、この先急に冷えて雪でも降ろうものなら山方面はいっぺんに路面凍結して走れなくなりますので、今のうちに楽しんでおこうと、この日曜日にはいつもより多めに峠を越えて来ました。
朝8:30頃に飯能駅をスタートして、まずは弓立山。
電線がザンネン(^^;
とき川町は林業の町。補給食の”建具最中”を買いに建具会館に寄りました。これから上る笠山でも数年前にクマの目撃情報がありましたので、気をつけねばです。
紫陽花の葉がパリッパリにドライフラワー化してました。フシギ奇麗だったのですが、うまく撮れなかったなァ。
冬支度。
ヒィヒィ言いながらの笠山の上り。通り過ぎながら「ツツジかー、、え、ツツジ?」ってなって引き返しました。
検索してみると”エゾムラサキツツジ”という、年に2回咲く品種もあるようですが、「ちょっと色が違うし、誰かが植えるような場所でもないし、、」なんてナゾ解きしながら上ってたら意外に楽に上れました。けっきょくナゾは解けないままでしたが(^^;
笠山あたりの車道でいちばん見晴らしが良い場所。
ほんとうは尾根伝いに堂平山の旧天文台まで行く予定でしたが、のんびり走り過ぎて時間の余裕がなくなってしまい断念。ヘッドライトを持参しませんでしたので、もし途中でパンクなんかしたら無灯火運転になってしまうのです。
定峰峠を上りながら、うらめしくドームを眺めるだけで我慢しました。
標高800m以上の尾根道では、14時くらいになると一気に気温が下がります。刈場坂峠あたりでは1℃でした。陽も傾いてちょっと心細くなります。
この日のルートは弓立山→笠山→定峰峠→白石峠→大野峠→天目指峠で100km弱。獲得標高2100mでした。
飯能駅に着いたのは15:30。たっぷりと初冬のパスハンティング(峠狩り)を楽しみました。
いつもよりたくさん走ったので月曜日の朝は身体がロボットのよう。昼休みに全身にセルフ鍼をキメてやっと人心地がつきました。
今週末もお天気良さそうですが、こんどはロボットにならない程度にしておきます(^^;
]]>
以前はよほど話題になったものしか観なかったテレビドラマ。それがどうしたことか、最近では週に何本も観るようになりました。思い起こせば、2014年にフジテレビで放映された、小泉今日子と中井貴一ダブル主演の「最後から二番目の恋」を観たあたりから、なんとなくドラマの新番組を物色する習慣がついてしまったように思います。現在放映中のものでは、「アバランチ」「恋です! ヤンキー君と白杖ガール」「スーパーリッチ」「和田家の男たち」「青天を衝け」「日本沈没」の6本を観てます。さすがに週に6本というのは初めてで、自分にゆるされた自由時間のほとんどをドラマ鑑賞で費やしていると言っても過言ではありません。
ドラマは人間同士の関係性を描くものがほとんど。若い頃は自分の人生を生きるだけでもしんどいのに、架空の人物の身の上に起こることで一喜一憂する余裕はありませんでした。くだらなくて時間の無駄だとさえ感じていたテレビドラマ鑑賞に、なぜ私はこんなにハマってしまったのでしょう。おそらくいちばん大きな要因は、加齢による男性ホルモンの分泌低下だと思います。それで相対的に女性ホルモンの働きが強くなって、以前より少しだけ共感能力が上がったのではないかと勝手に結論づけています。還暦前後からは、身体の変化だけでなく予想を超えた自分の心の変化に驚いています。しかし老いは新たな発見の連続、嘆くのではなく楽しんで過ごして行きたいと思っています。
テレビドラマ、とくにゴールデンタイムに放映されるドラマは、純文学やメッセージ性の強い種類の映画のように人間の真実に迫り過ぎると、視聴者が自分自身の見たくない内面と向き合わざるを得ない状況になり、視聴率が稼げないので、すべての表現がほどほどの加減にコントロールされているように思います。そんな中でも、LGBT、身体障害、発達障害、環境問題など、社会の関心が高まっているテーマをと取り入れて、ソフトなかたちで視聴者に考える機会を提供しているのはいいことだなと。
さて、じつは私がドラマを観るにあたり、ひとつ悩み事があります。ドラマは最初から最後までハッピーなお話ではつまらないので、構成上ほとんどの作品では途中で主人公が思わぬ不幸に見舞われたり、嫌なヤツにいじわるされたりします。最後にはハッピーエンドで終わると分かってはいても、そのストレスフルな時間帯に胸が苦しくなり、つい鑑賞を中止して録り溜めたほかのドラマを観始めます。もちろんそのドラマもどこか途中で止めることになり、気分が変わったところでまた元の作品の続きに戻るという、、
ふつうは、没入感が損なわれるので観始めたドラマを途中でストップするのは嫌だと思うのですが、私の精神構造にはなにか問題があるのでしょうか(^^;
]]>
去る10月3日のNHKスペシャルは「中国新世紀 中国共産党 一党支配の宿命」というタイトルでした。
番組の内容は、2019年に101才で亡くなった李鋭という人が、70年以上にわたって書いた「李鋭日記」をもとに中国共産党の歴史を辿り、また現在の中国が抱えている問題点を検証するというもの。
彼は中国共産党の中枢に近いところにありながら、中国の民主化を訴え続けた人です。1937年に入党して毛沢東の秘書を務めていたものの、最高指導者に対しても直言を辞さない気骨が災いして地位を奪われ地方へ下放されたり、文革時には8年もの間投獄されたりしました。その後地位を回復し、中国共産党中央組織部(中央委員会直属の党人事組織)副部長を務め、その後も引退するまで中央委員や顧問委員を務めました。引退後も民主化への情熱は衰えず、改革派の雑誌「炎黄春秋」の論客として活躍しました。
その番組を見て李鋭という人に興味がわき、彼が書いた「中国民主改革派の主張 中国共産党私史」という本を読んでみました。
本の前半部は、おもに大躍進政策や文化大革命など毛沢東の失政に対する批判。そして後半部は李鋭と個人的にも親交のあった元の総書記、胡耀邦の業績と人格に対する賞賛に多くのページが割かれていました。毛沢東の功罪については知る機会が多いのですが、私は胡耀邦については不勉強で、天安門事件の際に民主化運動の象徴とされた人であることくらいしか知りませんでした。この本を読んで、彼が中国の民主化にどれほど情熱をかたむけた人であったのかを知りました。
彼が在任中に起草した「中共中央の社会主義精神文明の指導方針の決議」には、「民主と自由、平等、博愛などの観念は人類精神の一大解放である。」「社会主義の法制は人民の意思を体現するものであり、人民の合法的権利と利益を保障し、人々の関係を調整し、人々の行動の手本をしつけ、各種の社会に危害を与える不法行為を制裁する」「憲法が規定している原則を守り、学問の自由、創作の自由、批判と反批判の自由を遵守しなければならない」とありました。もっとも、?小平の強硬な意向によって最後の一文に「ブルジョア自由化に反対する」という文言を書き加えざるを得なかったとのことですが、、
毛沢東の大躍進政策による死亡者は、中国共産党の内部文書では4500万人。しかし実際は7000万人を超えるとも言われています。また、文化大革命時の粛清・殺戮・内乱による推定死者数は数百万人から最大2000万人以上とも。それほどの犠牲者を出しながらも中国の国民が選択している政治体制を、よその国に住む政治音痴の私などがあれこれ言えるわけがありません。
ただ、昔とちがって情報が漏れ伝わってしまう現代ですから、ウィグルやチベット、香港の現状を伝えるニュースは胸を傷めながら聞いています。
あともうひとつ、中国の軍事費はこの20年で7倍と大幅に増加しており、日本の4倍以上。西太平洋や尖閣諸島での無理筋な領有権主張は、覇権主義と言われてもしょうがない状況です。昔は多くの先進国もさんざんやって来たことですから、彼らが”あんたらどの口で言ってんの?”と思う気持ちも分からないではありませんが、今の時代に合わない現状変更への執着は、国際的な孤立への道を辿るだけ。心配です。
このような政治向きのことはニュースで伝わって来ますが、中国のふつうの人々が困難な時代をどう生きたのかも知りたくて、今までにそんな本を何冊か読みました。英国に留学するまでは毛沢東チルドレンの紅衛兵であった過去を持つ作家ユン・チアンの自伝「ワイルドスワン」。天安門事件時の一学生の日々を描き、中国人として初めて芥川賞を受賞した楊逸の「時が滲む朝」。文革時の資産家の人生を描いたチャン・イーモウ監督の映画「活きる」など。どれも読んだり観たりする価値のあるものでした。そう言えば、ユン・チアンが書いた毛沢東の伝記「マオ 誰も知らなかった毛沢東」は、あまり知られていない毛沢東の行いがエグ過ぎて胸がわるくなり、下巻には読み進めませんでしたっけ(>_<)
さて、今週月曜日から六中全会(中国共産党中央委員会が開く全体会議)が執り行われています。今回は党の歴史を総括する「歴史決議」を審議するとのこと。過去に「歴史決議」が審議・採択されたのは毛沢東と?小平の時代の2回だけ。習近平は自分が彼らに並ぶ存在であることをアピールしたいのでしょう。
1981年、?小平のもとで胡耀邦がまとめて提案、採択された2回めの歴史決議では、「文化大革命は誤りであり、中国を混乱させ、その責任は毛沢東にある」と明確に結論づけました。今回はどのような決議が採択されるのか、非常に気になるところです。
]]>
ブログサービスのメンテナンス時に独自ドメインが使えなくなり、再設定を試みましたがなかなかうまく行かなくて、数週間拙ブログへのアクセスが出来なくなっておりました。気にかけて日々更新をチェックしてくださっていた方々には、大変ご迷惑をおかけしましたm(__)m
さて、緊急事態宣言が明けましたね。しかしまた何かの加減で感染者が増えてしまわないとも限らないので、十分に対策をした上で今のうちにすこし羽根を伸ばしておくのも精神衛生上必要なことだと思います。
この週末、私は自転車チームの集まりに参加するべく、山中湖にある我らが本拠地ペンション・モンテラックへ泊りに行って来ました。
2年前、チームメイトのムッシュが42才の若さでこの世を去りました。今年は彼の命日がちょうどこの土曜日でしたので、彼を偲ぶ会がモンテラックで行われたのです。
仲間たちは現地まで自走で行ったり、朝モンテに車を置いて富士山一周のコースをサイクリングしたりと、いつものように夜までは自由に過ごします。私は土曜日午前中は診療ですので、半ドン終えてから次男のオートバイを借りて向かいました。
自走の仲間たちが到着する前にお風呂を済ませておこうと、いつもより30分ほど早く出発したので、藤野P.Aでのコーヒー休憩もまだ背景が明るいです。
ところが東富士五胡道路が緊急工事だとかで通行止め。河口湖から山中湖まで渋滞している一般道を走ることになってしまい、ご覧のような時間になってしまいました。道路脇の温度計では6℃と表示されていましたが、南東方向になびく雲と湖面のさざ波を見て頂ければ分かるように北西の冷たい風が吹いており、ハンドルを持つ手は震えっぱなしでした。
陽気で人懐っこい人だったムッシュを偲ぶ会でしたから、もちろんみんなで楽しく過ごしました。
マダムが手にしている指輪。なんとこのジュエリーはムッシュの遺骨から作られているのだそう。その話を聞いてじんと来ました。そして毎日力仕事を頑張っている彼女の指にもじんと来ました。
ペンション・モンテラック・オーナー、はんくまさんからサプライズのケーキ。ハナシにはよく聞くものの食べたことがなかった ”しゃいん・ますかっと” やらが内包されており、たいへん美味でした。写真撮ってたらみんながスマホで明るくしてくれたので、ホワイトバランスがちゃんとしてるでしょ?(^^)
翌朝は朝食前に、仲間のキッシーとモンテラック近くの別荘地を散策。この別荘地は尾根まで続いています。石割山へ続く尾根を縦走するトレッキングロードに突き当たったところが終点。標高1,000mくらいのモンテから1,255mの終点まで写真を撮りながらのんびりおしゃべり散歩を楽しみました。
私が上の写真を撮っているとき、道の反対側の森では鹿も散歩していたようで、キッシーがすかさずスマホで撮っていました。
ぼちぼち終点というところからの富士山。朝になっても風は北西で、雲海は平野(写真左側の地名です)の方に吹き寄せられていました。
湖面には毛嵐も見られましたので、最低気温は0℃以下に下がったんでしょうね。
トレッキングコースは写真の平尾山(1,318m)を越えて、その先の石割山(1,413m)が最高地点になります。
朝食後には、つかぽんがひとりで石割山に登ると言ってましたっけ。石割神社の割れた巨岩をすり抜けると願いが叶うとのことですが、その願いが何なのかは訊き忘れました(≧▽≦)
クヌギ?コナラ? 広葉樹の落ち葉は多いのですが、上の平尾山の様子から見ても紅葉のピークは来週末あたりになりそうです。
散歩のあと、みんなでモンテ名物のふわふわオムレツを堪能してお開きでした。はんくまさん、お世話になりました。
今日もいい天気!
三国峠。風はまだ北西で寒ぶッ!
芦ノ湖スカイラインは単車天国。帰宅後次男に「いい齢してタイヤのトレッド端っこまで使うなよ」と𠮟られました。
何がしたかったかと言うと、富士山と駿河湾を同じ画に収めたかったのです。左端にギリギリ駿河湾も写ってはいるのですが、手前の水たまりの方がしっかり写り込んでしまいました(^^;
セ・リーグの優勝争いも佳境。この日の阪神戦はデーゲームでしたので、テレビ観戦するべく西湘バイパス→圏央道→東名高速とつないで、試合開始の14時ちょうどに帰宅。ムッシュの供養も出来たし、楽しかったし、充実の週末でした!
]]>
全国的に感染者が減少して、やっと緊急事態宣言が解除されましたね。しかし、寒い季節になるとウィルスの活性が上がるのは確実。まだまだ油断せずに過ごして行きたいですね。
日曜日には、宣言の期間中ずっと自粛していた電車での輪行で飯能駅までワープ。奥武蔵の山方面を走って来ました。
写真は駅からすぐの飯能河原にかかる割岩橋。名栗川(入間川)にかかるこの橋の下は、本来無料でキャンプやバーベキューが楽しめる広い河原なのですが、あともう少し10月6日の正午まで閉鎖されているようです。
この日のサイクリングは、中古で買ったフレームをいつもお世話になっている「サイクルショップあしびな」に持ち込んで組み上げてもらった自転車のシェイクダウンを兼ねていますので、距離も斜度もそこそこにしておく予定。成木街道から小沢峠山伏峠、天目指峠とつないで70km、1000mアップです。
散歩の途中でばったり行き会ったのか、道路っぷちの縁石に腰掛けておしゃべりを楽しむマダム2人。2人ともエクササイズ?の途中なのでマスクもなしです(^^;
写真を撮らせて下さいとお願いに行ってしばらく談笑。別れ際には「おじいちゃん、おばあちゃんを大事にしてね」と言って頂きました。「ありがとうございます」とお礼を言っといたけど、祖父・祖母は明治生まれなので生きていれば120才近く。たしかに派手なジャージにサングラスだと年齢不詳ですもんね(^^;
いつも自分ちの庭のように走っていた山伏峠もひさしぶり。
からの正丸峠。すこしモヤっていて、新宿副都心のビル群がやっと視認できるくらいでした。
マウンテンバイクでは使い慣れたディスクブレーキですが、ロードでは初体験。制動力が格段に向上して、もともと好きだった峠の下りがますます楽しくなりました。
フレームはLOOK社の2019年型785HUEZ RS DISC。前のオーナーは海外通販で購入したものの、サイズが合わなくてほとんど乗らないまま、国内価格の半額以下でメルカリに出品したようです。
ほんとうはレースで使うようなフレームなのですが、「軽い」「乗り心地が良い」「ヘッドチューブが長くてポジションが楽」という、おじいちゃんライダーにもピッタリな仕様でしたので購入を決めました。履いているのがチューブレスタイヤということもあって乗り心地はシルキー。すべてに大満足です。
国道299号から天目指峠に向かう久通川。渓流の水音が涼やか。
茶畑の中に建つカフェ、Y'sガーデンもひさしぶり。昼ご飯を頂き、いつものようにおみやげに羊羹も頂きました。
高い空と澄んだ空気の中でのサイクリングは気持ち良かったです。以前は毎週あたりまえのように走りに来ていた奥武蔵。ひさしぶりに走ってみて、ここでの時間がどれだけ自分を癒してくれていたのか再確認出来ました。これからも毎週来られる状況が続くことを祈りつつ、電車で帰路につきましたとさ。
]]>
新規感染者数はずいぶん減って来ましたね。しかしいちおう緊急事態宣言下ですので、大好きな奥武蔵方面でのサイクリングはずっと自粛中。手軽に走れる荒川サイクリングロードばかり走っていました。もちろんここも素敵な道なのですが、こうも毎週々々ではさすがに飽きて来ました(^^;
そこでこの日曜日には気分を変えようと、ひさしぶりにカメラなんか持ち出してみたものの、見てのとおりのどんより天気、、
和光市あたりでサイクリングロードに合流してどっちへ進むか思案。景色の変化は北上したほうが楽しめるのですが、北方向は空が怪しい感じでしたので、片道30km近くも単調な景色が続く河口方面へ向かいます。
岩淵水門で隅田川を渡り、荒川へ再合流する坂道。家族に後れを取ってしまい、必死で上って来たお嬢さん。
写真中央右にはうっすらスカイツリーが見えてます。
首都高速中央環状線のこの橋、五色桜大橋って名前なんですね。この付近の荒川堤には五色の桜が咲く名所だったことから命名されたのだとか。家人の実家がすぐそこなので、子どもたちが小さい頃には私も数年この近所に住みました。しかし、そんな桜見たことないぞと調べてみたら、”五色の桜”と言っても基本はピンクでトーンが少々違うだけ。たしかにそれなら当時ここいら辺で何度も目にしていましたっけ(^^;
五色桜大橋の下ではキクイモの花が風に揺れていました。
河口に到着。途中コンビニで買った蒸しパンをモグモグ。サイクリングの補給食にはジャムパンが一番好みなのですが、最近では置いてあるお店が少なくて、、
河口近くでチームメイトのアオさんに遭遇。彼の新しい愛車である青いケルビムの実車をはじめて見せてもらいました。
アートのセンス抜群のアオさんらしく、細部にこだわりの感じられるバイクでした(^^)
おしゃべりに花が咲いて写真を撮り忘れたので、当日アオさんが岩淵水門で撮ったものを借用させてもらいました。
総武線下のコスモス畑。
総武線のすぐ北。平井の船着き場のエノキ。この木を見るたび、いつもつい脚を止めて立ち寄ってしまいます。
室戸の実家の畑の隅には大きなエノキがありました。小学校低学年の頃からそのエノキの木の実を弾にして、竹で作った空気鉄砲で近所の子どもたちと遊んだ思い出がよみがえるのです。エノキの実の果肉の部分が潰れて空気が圧縮され、中の丸い種が勢いよく飛び出します。BB弾ほどではありませんがまぁまぁ痛かったので、今の親ならぜったい許さない遊びでしょうね(^^; 先々週くらいまではこの木にもたくさんの実が生っていました。すこし爪でつぶしてみるとあの懐かしい匂いが。郷愁をそそられましたねえ。
ウィキで見つけたエノキの実の写真。
この日の荒川サイクリングロードでは、2ヶ所でマラソン大会が開催されていました。
写真の板橋あたりの大会では、鬼の形相で疾走する猫ひろしさんとすれ違いましたヨ。
月末には宣言も解除されそうですから、こんどの日曜日にはひさしぶりに山方面に走りに行けそうです。
感染対策は十分に心がけつつも、すこし遠出が出来るようになるだけで心が軽くなりますね♡
]]>
ブログの更新間隔がずいぶん開いてしまいました。その間に私が何をしていたかと言うと、ただひたすら読書に励んでおりました。
ぜんぶで1,792頁。この量は自分としてはかなり頑張ったほうです。
前回の更新で平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読んだと書きました。その数日後のこと、自室の片づけをしているときにたまたま書棚の裏に落ちていた村上春樹の短編集「蛍・納屋を焼く・その他の短編」を見つけ、雨降り続きのつれづれに何篇かひろい読み。読んでいるうちに、何かとても懐かしい感覚がよみがえって来ました。思えばこの本を買ったのは私が20代の頃。読んだ本はどんどん処分していく方なのですが、この本に収録されている「蛍」という作品が好きで捨てずにとっておいたのです。
私は村上春樹の’80年代の作品はほとんど読みました。デビュー作「風の歌を聴け」からの3冊は、私の大学在学中に刊行されて、それこそ貪るように読みました。大学卒業を控え、友人たちの中には早く社会に組み込まれて行くことを望む者も多かったのですが、適応能力に自信はないものの特に取り柄もなかった私は、ほかに選択肢がなくて就職を決めていました。しかし、会社に入って組織人を演じているうちに自分の自分たる根拠を見失うのではないかと怯えてもいました。村上作品の主人公は、異星人ほど浮世離れした感覚を持ちながらも、うまく自分の存在感を消して生きる人物が多い気がします。私もそんなふうに生きて行ければいいな、と思っていました。
その後村上春樹は世界的に評価されるようになり、ノーベル文学賞候補と評される大家になってしまいました。ところが、評価が上がる一方の’80年代半ばからの彼の作品に、なぜか私はほとんどシンパシーを感じなくなってしまいました。
理由として考えられるのは、私自身が少しづつ大人になって彼の作品を必要としなくなったこと。そして何より、ミュージシャンと同じように、若い頃には溢れていた彼の創作の泉が涸れてしまったと感じたことです。作中の音楽、服装、車、飲食物などの過剰なディーテイルによる”趣味の良さ”へに執拗なこだわりや、それまでは気が利いていると感じていた彼のアメリカン・ハードボイルド風味のジョークや皮肉がなんだか薄っぺらく感じるようになりました。
さて、書棚の後ろから発掘された「蛍」をきっかけに、30年以上経って彼がどう変化したのか、またそれを読む自分はどう変化したのかに興味が湧いて、未読だった「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と「騎士団長殺し」を図書館で借りて、計1,792頁を3週間ほどで一気読みしました。
相変わらず彼の”趣味の良さ”へのこだわりはうっとおしかったです。しかし、2作とも最後まで波に乗ったまま読み通せました。若い頃の私が共感したちょっと青臭い精神世界の描写はひかえめ。しかし、練りに練られたストーリーのおもしろさにぐいぐい引き込まれました。この30年の間に小説を書くことに熟練したのでしょうね。途中で読むのを中断するのが辛いくらいでした。私ごときが言うのもおこがましいのですが、とても良く書けていたと思います。
ただ、毎年噂されるノーベル文学賞の受賞となると、そこまではちょっとどうなの?って感じでしょうか(^^;
]]>
お盆には3連休させていただきました。3日あれば1日くらいは翌日の仕事のことを気にせずに自転車に乗れる日が作れるな、という胸算用でしたが、あいにくの前線停滞で3日とも雨でした(^^; しかし、九州や中国地方でたいへんな思いをされているみなさんの事を思えば、贅沢なことは言えませんね。
毎年終戦の日の頃には、NHKで戦争にまつわる番組が放映されます。今年はコロナ禍に疲れた視聴者の心に配慮してか、いつもより番組数が少なかったような気がしました。私はNスペの原爆初動調査と太平洋戦争開戦を誘導した蔣介石の回、あと九大医学部の捕虜生体解剖事件のドラマを見ました。
終戦からたった15年しか経たない年に生まれ、戦争体験世代に育てられた私ですが、大人たちは戦争当時を思い出したくないからか、子どもたちの心を傷つけたくないからか、あまり多くを語ってはくれませんでした。なので若い世代と同じで身体や心に戦争の恐怖は記憶されていません。番組で初めて知るショッキングな事実や映像で、自分の心が傷ついていくのを感じます。しかし、その痛みはまた転んで大きなケガをしないよう、教訓を得るために必要なもの。戦争にまつわる番組を見ることは私にとっては夏休みの宿題なのです。
雨の夏休みをより有意義に過ごそうと、今年は本を1冊読むことも宿題に追加。音楽家のお話にしようとは思っていましたが、終戦特番が少なかった分、登場人物にクロアチア出身の人が出てくるという、平野啓一郎の「マチネの終わりに」を選びました。
哲学的なインパクトはそれほどでもありませんでしたが、映画化にピッタリのドラマチックなストーリーで「ほいでどうなんの?ほいでほいで?」って感じ。あっという間に読み終わってしまいました。ここのところ重厚な作品ばかり読んでいたので、たまには”読み物”的な作品もいいなと。こんな言い方、作者には失礼ですけど(^^;
読書も予定より早く片付いてしまったので、こんどはアマプラでクロアチアの映画も1本観ました。タイトルは「灼熱」。
本編は3つの時代のお話で構成されています。旧ユーゴスラヴィアのクロアチアとセルビアの紛争が始まった1991年。紛争が終結したばかりの2001年。ふたたび平和が訪れたものの、それぞれが心に残った傷に苦しむ2011年。3つとも別のクロアチア人青年とセルビアの娘の恋の話を中心にストーリーが展開して行きます。異民族ではあるもののそれまで同じ地区に住む仲の良い隣人だった者同士、あるいは恋人同士だった者たちの、愛情と憎しみが混在する整理のつかない心が描かれています。バルカン半島の歴史についてはある程度勉強したつもりでしたが、当時や現在を直接体験した人たちが製作し演じた映画からは、文字情報や静止画像では得られないリアリティが感じられました。とくに女優さんの目に表れる複雑な心の動きには胸が苦しくなりました。
雨とコロナ禍でどこにも出かけられない夏休みでしたが、自分としては存分に宿題に取り組めた有意義な3日間でした。休み明けは身体も心もスッキリ。また頑張ります!
休みが明けてそんなことを書いていたら、アフガニスタンではまたタリバンが首都カブールを制圧したというニュースが入って来ました。タリバンは’90年代に国土のほとんどを掌握したものの、ほとんどの国から国家としての承認を得られなかった上に、人権を顧みない強圧的な統治で国際的な非難を受けました。今回はその教訓を生かして、ある程度人権に配慮した統治に路線変更するという声明を出しているとのこと。ぜひそうあって欲しいものです。
]]>
新国立競技場の再設計、大会エンブレムのデザイン盗用問題、竹田JOC会長の贈収賄疑惑、森会長の女性蔑視発言、開会式の楽曲担当の小山田圭吾氏の過去のいじめによる辞任。そして何より、いっこうに収束する気配を見せないコロナ禍の真っ只中での強行開催。今回の東京オリンピックはツッコミどころが満載でしたね。
勤勉で誠実な民族性、生み出す工業製品の質の高さ。いろいろとちゃんとしていることで日本は世界から信頼されて来ました。しかし近年、英国での日立の列車の亀裂発生、神戸製鋼や三菱各社など基幹産業における検査データ改ざんなど、工業製品に対する信頼が揺らぐ出来事が続いています。そこへ持ってきて冒頭に書いた今回のオリンピックにまつわるスキャンダルの数々。これでは製品の質だけでなく、日本人そのものの質の低下を疑われてもしょうがない気がします。
運営側のことをグチグチ書きましたがそれはそれ、各国から訪れてくれた選手たちの活躍はテレビにかじりついて応援しましたヨ。
彼らの肉体、動き、表情、その美しさはどれを取っても芸術的でした。本当はすべての競技を観戦したいところでしたが、それはなかなか(^^; それでも時間のゆるす限り、選手たちのすばらしいパフォーマンスを堪能させてもらいました。
スポーツのイベントで私がいちばん感動するのは、選手たちの間に存在するお互いへのリスペクトが垣間見えたときです。男子800mでともに転倒してしまったアモス(ボツワナ)とジューイット(アメリカ)のスポーツマンシップ。ソフトボールのゲーム終了後の日米監督同士のハグ。スケートボード女子パークの岡本選手がメダル確保の安全策を取らず、頂点を目指して果敢にチャレンジ、そして転倒。4位に終わったのですが、各国選手が涙ぐむ小柄な彼女を支え上げて健闘を讃えた場面。男子走り高跳びの決勝、カタールのバルシムとイタリアのタンベリは、優勝決定のジャンプオフを行わず金メダルを分け合う決断をしました。今大会ではいつも以上に、胸を打つシーンが多かったように思います。
東京オリンピックの開催に対して日本国民にはいろいろ思うところがあっても、世界中の選手たちにとっては、自分自身が生まれて来た意味を表現出来るまたとない機会。競技でベストを尽くすことはもちろんですが、大会が開催されたことへの感謝の気持ちや、この厳しい時代に世界を励ますために自分に何ができるだろうかと日々自問してきたことが、上記のような行動につながったのではないでしょうか。
いろいろあった今回の東京オリンピック、開催して良かったのか悪かったかは私には分かりません。ただ、選手のみなさんの頑張りに励まされたことは確かです。ありがとう!
]]>
ついに今日、東京オリンピックが開幕しましたね。
せっかくのオリンピックですから、世界中から日本を訪れる人たちに存分に楽しんで帰ってもらいたかったし、こちらも自国開催のお祭り気分を味わいたかったのですが、コロナ禍はいまだ終息に至らず、、
後手後手のコロナ対策。その中でのオリンピック開催強行。いろいろモヤモヤすることはあります。私自身も今回のオリンピックに対しては、あまり積極的に楽しむ気持ちになれずに居ました。しかし、誰かのことを責めても過去の出来事を消せるわけでもありません。政治家への総括は選挙のときにすればいいわけで、せっかく来日してくれた選手たち、もちろん日本の選手たちのためにも気持ちを切り替えて応援することにします!
今朝スタートした自転車ロードレースは、山中湖にある我らが自転車チームの本拠地、ペンション・モンテラックから徒歩1分ほどの湖畔を通ります。チームメイトたちは何泊もして応援するとのこと。しかし、残念ながら私は金土曜日は休診できないのであきらめていました。そんな折、モンテのオーナーであるはんくまさんが、フェイスブックにコースを試走する選手たちの写真をアップしているのを見て、私も雰囲気だけでも味わいに行ってみようと、休日だった木曜日を利用してオートバイで出かけました。
都県をまたいでしまうのですが、ワクチン2回接種済みのはんくまさんに会う以外は、S.Aのトイレ以外どこにも寄らずにトンボ帰りの予定です。
しかし出発してビックリ。環八→甲州街道→中央道と大渋滞。さすがに道志みちは空いていましたが、お昼過ぎの帰り道でも下り線の渋滞は続いていました。どう考えてもみなさん泊まりがけのお出かけですよね(^^;
道志みちを試走するウズベキスタンの選手。
この日の山中湖畔は12時でも気温25℃。ときおり雲がかかりますが、だいたいはカラッとした晴天で、試走の選手たちも気持ちよく走れたのではないでしょうか。
じつは私はあれほど大好きだった自転車ロードレースの中継を、ここ数年まったく観ていませんでした。数年前に、映画や本でロードレース界全体を覆っていた過去のドーピング疑惑にまつわる詳細が次々に明らかにされ、組織ぐるみのドーピングに翻弄された若い選手たちの苦しみを知って、プロトンを見るのが辛くなってしまったのです。
しかし、私が観戦していた頃から活躍している選手が目の前に。スペインのバルベルデさん。なんとイタ車なドイツ車。アニオタだったんでしょうか(^^;
メカニックさんとサドルの高さが、あーでもないこーでもないと調整中。
その脇をアネ・サンテステバン選手?が通過。しかし、あわてて撮ったらピントが後ろのアゴマスクのおじさんに、、
湖畔ではいろんな国の選手とすれ違うのですが、オートバイでは写真を撮るまでに時間がかかるため、ほとんど写真なし。
ここからの4枚は、自転車で周回していたチームメイトのタカトリから拝借しました。
ペンション・モンテラックに到着。オーナーのはんくまさんは、この夜からチームメイトたちがたくさん泊まるので夕食の仕込みに忙しいなか、おしゃべりにつきあってくれました。
残念ながら、この日富士山は雲の中。
明けて昨日の昼休み。開会式に先がけて、都心へ五輪を描きに向かうブルーインパルスが練馬上空を通過しました。
さて、気分を上げて行きますか!
]]>
ちょっと前の更新で「マツコの知らない世界」の女性ボーカル特集について書きましたが、その後またすばらしい歌い手を発見してしまいました。発見と言っても勉強不足の私が知らなかっただけで、20年も前から活躍している人です。
その名は、アナ・マリア・ヨペック。ポーランド出身の彼女は、ワルシャワのショパン音楽アカデミーを卒業したあと、ハービー・ハンコックやロン・カーターを輩出したニューヨークのマンハッタン音楽院でジャズを学びました。現在もパット・メセニーやゴンサロ・ルバルカバ、ブランフォード・マルサリスなど、私の好みのジャズ・ミュージシャンと共同名義のアルバムをリリースしています。じつは今回彼女を知ったのも、スポティファイでルバルカバをランダム再生しているとき。インスト曲が多い中、とつぜん彼女の歌が流れて来ました。聞いたことのない言語(ポーランド語?)と、ちょっとエロい感じのウィスパーボイス。ジャンルは何にも当てはまりません。
それでも、第一印象はあまり良くありませんでした。昭和の歌番組でよくロングドレスのエロいオバハンが喘ぎ声で歌ってた、あの気持ち悪さを思い出しちゃって(^^; しかし、何か魅かれるものがあって何曲か聴くうちに、彼女が自分にとって重要なボーカリストであることに気づきました。彼女の声にはあらかじめ説得力が備わっており、1曲聴くたびに古い時代のお話をひとつ聞かされたような気分になります。これは、声質はまったく違いますがカサンドラ・ウィルソンなんかにも共通するツボ。私にとっては、声が良いとか歌が上手とかそんなことよりも、時空を超えて幻想的な世界へトリップさせてくれることが重要なんです。
今まで世界のいろんな地方の音楽や文学やアートに興味を持って来ましたが、東欧圏はほとんど手つかずのままでした。サッカー日本代表監督だったボスニア出身のオシムさんのコメントや、アマプラで観たチェコの映画。また、行きつけのバーでときどき会うハンガリー出身の青年の人柄などから、彼の地が哲学的な風土であることには気づいていました。アナ・マリア・ヨペックとの出会いを機会にもう少し掘り下げてみようと、セルビアの小説家ミロラド・パヴィチの本を取り寄せ中です。楽しみ!
]]>
アマゾンPrime VIdeoのおすすめに出てきたのは、以前YouTubeで断片的に見た表題の映画。
1969年5月13日、東大駒場キャンパス900番教室で行われた公開討論会のフィルムをTBSが保管しており、昨年映画化されました。
討論会には1000人を超える学生が集まり、「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と息巻いていました。主催者は東大全共闘。彼らは同年1月に安田講堂で8,500人の機動隊と対峙し、敗北を喫したばかり。しかしその敗北以降も全国の国公私立大学の8割にあたる165校で闘争は継続されていました。
「三島を殴れると聞いたから来た」という学生や、三島を守るために私服姿で学生に混じって息をひそめている私設民兵組織「盾の会」の会員。また、当時全共闘と激しく対立していた民青(共産党系青年組織)がこの討論会開催を妨害するために組織員を送り込んでいたり。映像からも、緊張感に満ちた会場の空気が伝わって来ます。
命の危険も顧みず、なぜ三島は全共闘の招きに応じたのか。どうやら彼は、学生たちを議論で負かしてやろうと思っていたわけではなく、彼らの中に自分と通じるものを感じて共闘を呼びかけに来ていたようです。戦後の混乱から立ち直り、高度成長期に入っていた当時の日本は、両者の目には「堕落」した国として映っていました。全共闘の論客、芥いわく「人間は自由に直面すると敗退するという、文明の習慣が身についてしまっている。」 また三島も「私は安心している人間があまり好きではない。自民党はもっと反動であってほしいし、共産党はもっと暴力的であってほしい。なのにどっちもモタモタしていてイライラする。」
たしかに、戦勝国アメリカの思い通りに利用される日本の現状を憂う”反米”の姿勢。また目的のためには暴力も否定しないという意味でも、両者に共通するものはありました。
この討論会が行われたとき、私は小学校4年。翌年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島が切腹したニュースはよく覚えています。中学高校の頃には、アルバイト代でマルクスや三島の本を買ったりして右も左もちゃんと勉強しようとしましたが、当時はろくに理解出来ず。けっきょく音楽やオートバイにうつつを抜かして、彼らの言うところの「堕落」した人生を送って来ました。それはそれで罪悪感も後悔もありません。
私も一市民として、出来る範囲で世界や日本で起こる出来事について観察は怠らないように心がけてはいます。しかし、イデオロギー的なこと政治的なことについては、だいたいの場合において自分の意見を持ちません。左右両極・中道、それぞれ考え方をする人にはそれなりの根拠があるはず。つい、どちらの言うことにも納得してしまうんですよね^^; 政治家は仕事ですから、議論とも呼べないやりとりで政敵をこき下ろして自分の正当性を主張しようとしますが、一選挙民の我々が政治家の真似をして”好き・嫌い”のハナシである政治信条を、”正しい・間違っている”にすり替えて語るのは、ちょっと違う気がします。
討論会を終えたあと、三島は「概して、私の全共闘訪問は愉快な経験であった。」と話していたとのこと。また、全共闘の芥もこの映画に向けたインタビューで「共通の敵はあやふやな猥褻な日本。彼に対する敬意はあった。なければ話さない。」と。
真向から議論を戦わせながらも、お互いにリスペクトがあったというハナシは嫌いではありません。
]]>
いよいよ関東甲信地方も梅雨入りしましたね。
昨年から続くコロナ禍は依然収束には程遠い状況。当院にはご高齢の患者さまが多くいらっしゃいますので、可能な限りの感染対策をしているとはいえ毎日が緊張の連続です。しかし、ここに来て東京都の65才以上の1回目のワクチン接種が40%を超えました。まだまだ油断は出来ませんが、接種が進めば、社会的な不安が大きくなる一方だった昨年のお先真っ暗な状況よりは、少しマシな気分で過ごせるようになりそうです。
今回、ブログの更新の間隔がずいぶん空いてしまいました。というのも、先月末に従妹が44才の若さで亡くなってしまい、ちょっと心が沈んでいたのです。乳ガンでした。1年と少し前に医師から宣告を受けたあとも、本人は回復すると信じて疑わなかったらしく、しばらくの間は夫君にも両親にも相談せずに自分ひとりで通院治療を続けていたとのこと。しかし本人が思った以上に進行は早く、時間を置かずに入院せざるを得なくなり、今年に入ってホスピスに転院。叔父夫婦は転院後には数回面会出来たようですが、叔母はひとり娘の病院でのつらい闘病中に寄り添ってあげられなかったことが心残りのようでした。
お骨上げまでの間、従妹の夫君としばらく話せました。従妹は亡くなる前夜、何かを感じたのか強い動揺を示したものの、鎮静剤で落ち着いてからは、しずかに自分が死んだあとの希望を彼に話したそう。「あなたはまだ若いし、私が死んじゃったあと良いひとが現れたらやり直してね」と言ったらしいのですが、夫君は「彼女はヤキモチ妬きだから、ぜったい化けて出ますよ」と笑っていました。「闘病中はしっかりわがままを言ってくれて、それに応えることが救いでした」とも。ふたりの仲の良さがうかがえるエピソードを聞き、彼の喪失感を思うとなんとも、、
4月には、大阪の叔母がやはりガンで亡くなったばかり。身内の不幸続きはさすがに堪えました。いつも自分の死、身近な人の死については受け容れの準備を心がけているつもりでしたが、やはりしんどいものですね。
告別式からの帰りの電車、悲しい気持ちを紛らわそうとSNSなんかチェックしても間が持たなくてメルカリを開き、うっかり中古の自転車フレームなんか買ってしまいました。私が悪いんじゃないんです、従妹が急に死んじゃうのがいけないんです(^^;
]]>
緊急事態宣言継続中で読書が捗ってます(^^;
前回アップしたカルペンティエルについてはもうひとつハマりませんでした。そこで今回は、カルペンティエルと並んで南米マジックリアリズムの先駆者と評される、グアテマラのミゲル・アンヘル・アストゥリアスに挑戦してみました。
アストゥリアスは、1899年にメスティソ(スペイン人とインディオの混血)で判事の父と、インディオで教師の母の間に生まれました。アストゥリアスが5才のとき両親は、独裁政治で悪名高かった当時の大統領カブレラに反抗して職を追われます。一家で祖父の住むインディオの村へ移り、アストゥリアスは現地でインディオの伝説を聴いて育ちました。この経験がのちにマジック・リアリズム作品の執筆の基礎となったことは言うまでもありません。
当時のグアテマラではバナナ栽培が主産業でした。しかし、そのバナナを耕作する土地は国土の70%を全人口の3%が所有。貧富の差がきわめて大きく、共に利害が一致する富裕層とアメリカ(主にユナイテッド・フルーツ社)によって支えられた独裁政権が続きました。上記のカブレラ失脚のあと大統領に就任したウビコはスパイ組織と密告網を拡充。ファシストを自認し「私はまるでヒトラーのようだ。最初に処刑してから、然る後に尋問を行う」とうそぶいていたと伝わります。
その後、つかの間誕生した社会主義政権もチリと同じようにCIA主導による軍事クーデターにより消滅。このときのCIA長官はA.W.ダレス。日本に馴染みの深い元国務長官の兄J.F.ダレスと共に、ユナイテッド・フルーツ社の大株主でした。
前置きが長くなりました。今回読んだ作品は「大統領閣下」。まぎれもない傑作でした。”絶望の中で生きる”という意味では、アストゥリアスと同じように中米を暴力が支配していた時代を生きた、メキシコのフアン・ルルフォにも通じるものがありました。ルルフォの作品は、凄惨なシーンでさえ木の節のような目で観察した色のない世界。心まですっかり乾いてしまった絶望感だけがそこにありました。ところがアストリアスの場合は直喩・隠喩ともに巧みで、表現が瑞々しいだけに絶望感も生々しいのです。どちらの作品も、お話の最後の最後まで救いがないというところも同じ。
メキシコとグアテマラは、テオティワカン・マヤ・アステカなど、同じメソアメリカ文明の人々を先祖に持つ国。死生観も近いものがあるのでしょう。死をネガティブにとらえず、現世が辛くても、死んでしまえば別の世界へ行けると思うから今をどうにか頑張れる。あえて死を望むわけではないにせよ死は救済である、という考え方。
南米マジックリアリズム作品は空気感を読むものなので、ストーリーはまぁどうでもいいとして(^^; いくつか気に入ったフレーズをひろい出してみます。
「死はいつもわしに味方してくれた。これからもそうだろう。」
「銃弾は人の体を貫くとき、何も感じはしない」
「夜、地球が回るのは死人の重みのせいなのだ。そして昼は生きている者の重みで回る。死人の数が生きている者の数より多くなれば、夜は果てしなく続き、昼はふたたび訪れることはないだろう。」
「かつて一度、自然はこのように美しいものを作ったが、それが生まれた鋳型はたちまちにして崩された。」
この本のあとがきは、カルロス・M・デュランという人が書いていました。この人のことは検索しても引っかかって来ないのでどういう人なのかナゾなのですが、その内容がマジック・リアリズムの本質を表していますので引用させていただきます。
「詩人たちは生と死、過去と未来などふたつの現実、あるいは現実のふたつの側面、すなわち苦悩に満ちた日常的現実と想像上の現実について語ってきた。内的時間においてはこのふたつは非常に錯綜しているので、われわれは時としてどこまでが現実であり、どこから夢が始まっているのか判然と認め得ないことがある。しかし、このような内的時間こそが、あらゆる矛盾が止揚される瞬間なのである。」
いや、まさにおっしゃるとおりですわm(__)m
]]>
音楽家のウッシーを治療中、読書の話になりました。彼は今カルペンティエルの「失われた足跡」を読んでいるとのこと。
カルペンティエルという名前は、脳内で何度も反芻してやっと見つかるくらいに私の記憶の隅っこで薄れかけていました。
アレホ・カルペンティエルは1904年生まれのキューバの作家。グアテマラのアストゥリアスやアルゼンチンのボルヘスなどと共に、南米マジック・リアリズムの先駆者として20世紀のラテンアメリカ文学に大きな影響を与えました。私が大好きなフアン・ルルフォやガブリエル・ガルシア=マルケスなどが世に出る数年前に世界的な評価を得ていますので、ひょっとしたらルルフォやガルシア=マルケスも彼の作品を読んでインスピレーションを得たかもしれません。
今回私が読んだのは「失われた足跡」と並ぶ彼の代表作、「この世の王国」(1974)です。 世界の中でも、アフリカ系黒人奴隷の反乱による唯一の成功例であるハイチ革命を題材にして書かれました。ハイチ革命自体がブードゥー教の高僧によって行われた特別な儀式が触媒になったとも言われており、呪術的な要素はマジック・リアリズム作品の題材にはうってつけだったのでしょう。
カルペンティエルは、本書の序文でシュールリアリズムを手厳しく批判しています。どうやら彼には、驚異的なものを無理やり生み出すための芸術家の作為が透けて見えるらしいのです。反対に、スピリチュアルな感覚にどっぷり浸かって驚異的なものの存在を信じ、また実際にそれを見てしまった作家や画家の作品を絶賛。自身の芸術的な感性によほど自信があったのでしょうね。彼の不遜な序文を読んで、期待半分・心配半分な気分で本編へ進みました。
物語は史実に基づいた描写も多く、ハイチ革命に関わった歴史上の人物が実名で登場しますので、読み始める前にハイチの歴史を大まかに把握しておくと物語への没入感が大幅にアップすると思います。支配層と被支配層、白人とアフリカ人とムラート(白人と黒人の混血)、キリスト教と土着のブードゥー教など、さまざまな属性の対比。それまで被支配層だった者が支配者になったときの高揚感と戸惑いとその先に待つ悲劇。
もともと歴史的事実がドラマチックですので、ストーリーは素晴らしかったです。ハイチ革命が驚異的なものの力を借りて成し遂げられていく過程には興奮を感じました。ただ、ジャーナリストでもあったカルペンティエルですからやはり視点は客観的。作者自身がスピリチュアルなゾーンに入ったトランス状態で書いたものには感じられず、マジックリアリズム特有の、不思議な精神世界へ誘導される感覚は味わえませんでした。どうやら、作者自身が自ら序文でハードルを上げすぎてしまったようです(^^;
そんなことより、この本のおかげでそれまでよく知らなかったハイチ革命について知る機会をもらえたことには大感謝です。
]]>
ちょっと前に放映された「マツコの知らない世界」を録画で観ました。”女性の歌声を分析し続ける歌声ソムリエ”として森山直太朗が出演した回です。この番組も森山直太朗も、ふだんはほとんど観たり聴いたりしないのですが、"女性の歌声を分析する" という触れ込みに興味をそそられて録画してあったのです。
ご存じのように森山直太朗のお母さんは、同じく歌手の森山良子さん。直太朗は小さい頃、年間約120本のコンサートをこなす多忙な母親の不在による寂しさを、女性歌手の歌声を聴くことで癒していたと話していました。
マツコ・デラックスも、心を打たれる歌い手のほとんどが女性とのことでふたりは意気投合。好みの歌い手さんもかなりの数がカブッていました。
直太朗は「自分にピッタリな歌声を知れば、最高の安らぎを感じられる」と話していました。彼が自分の歌でファルセットを多用するのも、女性の声を再現したいからなのだそう。
以下、直太朗が表にしていた女性アーティストの分類の抜粋です。
悟り系:五輪真弓、Cocco
まっすぐ系:松たかこ、満島ひかり
エンジェル系:原田知世
噛めば噛むほど系:Aimer Uru milet
カリスマボイス系:中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル
DIVA系:平原綾香、Misia、吉田美和
パンチ力系:広瀬香美
NEWフォーク女子系:YUI 、miwa
生きざま系:Chara、UA、bird
シャーマン系:松任谷由実、aiko、あいみょん
また、別枠で「最高の癒し ララバイ系」を設けており、手嶌葵、山本潤子、プリシラ・アーンが入選していました。
分類項目には、納得できるものも???なものもありますが、彼の熱弁に耳を傾けていると、女性の声に対する強い思い入れはヒシヒシと伝わって来ました。
私がよく聴く女性ボーカルはジャズ系の人が多く、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、シャーリー・ホーン、カサンドラ・ウィルソン、ルシアーナ・ソウザなど。ほかのジャンルでは、もちろんジャニス・ジョプリンとかも大好きです。ここ数年のフォーキーなテイストのテイラースィフトもいいし、日本人ではユーミンはもとより、山崎ハコ、阿部芙蓉美、竹内まりや、石川さゆりなどなど、数え始めるとキリがありません(^^;
「男性は音楽を曲で好きになり、女性は歌詞で好きになる」という説をどこかで聞いたことがあります。
今どき男がどうの女がどうの、などと語るのはタブーかも知れません。しかし、ことポップスに限定すれば、たしかに男性は歌い手さんの声や楽器のトーン(音色)・リズム・メロディで、女性は歌詞の世界観や具体性が共感できるかどうかで好き嫌いを決める傾向はありそうな気がします。直太朗の上のコメントからも、彼がトーン優先で聴いていることがうかがえますし、そこは私も同じです。場合によっては歌詞の意味を理解しようとすることが、本能的な感受性を邪魔してしまうことさえあります。声そのものにあらかじめ母性や説得力が含まれている人は、あえて語る必要がないというか。それでもユーミンやあいみょんの歌詞には、ときどきドキッとさせられる表現があります。
ともあれこの番組を観て、今まで聴いたことがなかった若い人の歌をたくさん聴く機会を頂きました。とくに「貴方解剖純愛歌〜死ね〜」など、インディーズの頃のあいみょんは良いですねえ(^_-)
]]>
5年前、うちの次男からスタッフ女史の息子さんへドナドナされて行ったスーパーカブ50。
通勤時には、白バイのおまわりさんから「君のカブ、イケてるねえ」なんて言われたりするらしく、気に入って乗ってくれています。ただ彼はメンテが苦手とのこと。カブは耐久性もスーパーなのですが、なにせ2000年型の古い個体ですから、スタッフ女史宅前を通りかかってガレージのこのカブを見るたびに、そのコンディションが気になっていました。
そんなある日、スタッフ女史から「息子のカブが、走るとガラガラ音がするらしい」との相談。チェーンが伸びてチェーンケースに当たっている音だと想像がつきました。以前私がチェーン交換してからもう15000km。そろそろ交換の時期ですし、ついでに周辺のもろもろ部品の交換を含めて、いちど預かることにしました。
このカブをとても大事に乗っていたうちの次男が、自分にメンテ作業をさせてほしいと申し出てくれたので、彼の仕事休みの日に院の裏のスペースで作業してもらい、昼休みには私も手伝うことにしました。
うちにあった頃、自宅前で公園をバックに撮った写真。
乱雑な作業場の風景。次男の性格が出ています(^^;
今回交換するのは、チェーン、スプロケット(ドライブ・ドリブン)、リアブレーキシュー、ハブダンパー。
ドライブ側もドリブン側もスプロケットはかなり摩耗していました。長いこと注油もしていなかったらしく、チェーンも錆び錆び(^^;
カブC50のチェーンは98コマ。100コマのチェーンを2コマ詰めます。チェーン交換は自転車で何度も経験していますのでお手のものです。
各部のこの錆色が好きです。
ブレーキシューも交換して、あとはハブダンパーを取り換えて組み上げるだけ、と思いきや、ハブダンパーが入らない! やってしまいました。カブは長い年月生産されていますので、部品の購入時は適合年式をよ〜く確認しないといけないのに、仕事の合間に注文したものですから、きちんと確認していなかったようです、、 タイヤもそろそろ交換したほうが良さそうな摩耗具合でしたので、そのときに併せて交換してもらうことにしました。誤って購入したダンパーは私のカブで使えるので無駄にはなりません。
翌日には、ついでに14,000km走行の私の通勤用カブ110も、チェーン・スプロケ・ハブダンパー・ブレーキシュー・タイヤの交換をお願いしました。
次男は自分でやると言ったのですが作業時間短縮のため、タイヤ交換だけはホイールを外して近所のNSAPSへ持ち込み。工賃1,540円で交換してもらえました。
私のカブの純正タイヤは中国のチェンシン。耐久性は十分でしたが乗り味が硬くて突き上げが強く、グルーヴが掘られた路面ではタイヤを取られる感じでした。今回履いたのはミシュランのパイロットストリート2。昨年発売されて、かなり評判の良いタイヤです。乗ってみて驚きました。以前感じていた不満がぜんぶ解消しました。このタイヤ、超絶おすすめです!
私のカブのスプロケはドライブ側が14T、ドリブン側が34T。とくに不満は感じていなかったのですが、60km巡行時のエンジン回転数がもう少し抑えられたらと、今回15Tを買ってみました。
ところが、スプロケットのカバーを外してみてビックリ。なんと前オーナーがすでに15Tを飛び越した16Tに変えてあったのです。試乗した友人が「このカブ速いよね」って言ってたのも納得でした(^^; 15Tは無駄になってしまいましたが、なにしろカブの部品は安いので損害額は1,055円で済みました。
写真はドリブン側。それなりに摩耗していますね。
チェーン張りの調整くらいは自分で。
暑くもなく寒くもなく、心地よい春の昼下がりに親子でバイクいじり。楽しい時間でした。
2台とも、メンテ後は絶好調です!
]]>
春はあっという間。気づけばもう桜も終わってしまいそうですね。
しかしなにせこのご時勢、とても季節の移り変わりを楽しむ気分にはなれなくて、、
私自身はコロナなんかに感染しても負ける気はしませんが、もし来院される高齢者の方たちに伝染してしまったらと気が気ではないのです。SNSのタイムラインには、友人たちがアップする春の写真でいっぱい。季節を楽しめるみんなをうらやましい気持ちで眺めていました。
日曜日、これではいかん!と気鬱な自分を戒めて、毎年楽しみにしていた”八徳の一本桜”を見に行って来ました。
先週の友人の投稿に満開の写真がアップされていましたので、花はもう終わりかけているのは承知の上。ただ、私にはあの場所でしか感じられない春があるのです。
新緑の山にところどころ咲く山桜。パステルカラーの山はふわふわのベッドのよう。横たわってみたくなります。
仲良く散歩を楽しむ老夫婦。佳き。
一昨年の台風の影響でほとんどの区間が通行止めだった尾根道・奥武蔵グリーンラインも、やっと鎌北湖から傘杉峠までは開通し、八徳へもグリーンライン経由で行けるようになりました。まずは武蔵横手からいつもの林道関の入線で尾根に取りつきます。
山に入ると、道ばたにはあちこちに花大根やシャガの花が咲いていて、ここでも春を感じました。
顔振峠近く。すっかり青空が見えなくなってしまいました。午後には雨になる予報ですので急がねば。
八徳に到着。やはり桜はほとんど散ってしまっていました。手前の畑の作業に来たお父さんは、いつも観光客に配慮して軽トラをもう少し離れたところに停めてくれているのですが、もう花もおしまいなのでド〜ンと桜脇に。これはこれでのどかな里山の風景。ほっこりします(^^)
桜も良いのですが、なんとなくこの場所の空気感が好きなんですよね〜。
なんと麓の吾野駅から歩いて上って来たという女性ふたり。ブログに載せても良いと言ってくれましたので遠慮なく。
上の写真にも写っていますが、もう疲れて根が生えてしまったとのこと。おじさん自転車なので乗せて行ってあげられません(^^;
とは言え、あとは下るだけなのでなんとかイケるでしょう! 苦行の花見登山。良い思い出になるといいなあ。
ツイッターを見ると、どうやらチームメイトのなりちゃんも飯能あたりまで来ているらしいので、子の権現近くのいつものうどん屋さんで待ち合わせ。私は峠をひとつ越えないと合流できないので汗だくで上りました。なので風景の写真はここまでです。
うまく合流できました。写真を撮ろうとしたら、頼みもしないのになりちゃんも地蔵ポーズをキメてくれました。
なりちゃんは例年冬は自転車に乗らずテレマーク・スキーしかしないので、この時期はだいたいかなりのワガママ・ボディに成長していました。しかし、今年は仕事がもろにコロナの影響を受けたらしく、スキーのほか平日中心に半月足らずで1,000kmも自転車に乗ったのだとか。この先の行程は下り基調なのに、峠越えよりもツラいペースで牽き回されました(>_<)
じつは、いつものうどん屋さんは満席で入れず、最近お気に入りのカフェ、Y’sガーデンでランチでした。
あんまり明るい話題は出て来ませんが、まぁふたりともきほん能天気なのでとくに暗くもなりません。また遊ぶ約束をしてバイバイ!
またチームのみんなと来たいねえ(^_-)
]]>
前回の更新で紹介させて頂いたウッシーの名曲「ろくでもないうた」。
自分の文を読み返してみて、彼の名誉のために補足が必要だと感じましたので、今回もまた彼について書かせていただきます。
「ろくでもないロクデナシ 誰かのために生きることもせず」
このフレーズ、ちょっと聞くと利己的な若者の自省の歌のように聞こえます。ところがウッシー本人は、とても利他的な意識の高いナイスガイなのです。しかしそんな優等生的な評価が、彼にとってはかえってすこし窮屈なのかも知れません。自虐的とも取れる歌でも歌って、自らの心のバランスを取っているのだと思います。
前回、この一文を加えなかったことに心苦しさを感じていましたが、これですっきりしました(^^)
だいたい若いうちから誰かのために生きる者など信用できません。人間だって動物のはしくれですから、自分の遺伝子を次の世代につなぐため、若いうちは他者よりも自分を優先するのがあたりまえ。還暦を超えた友人たちを見ていても、実際に自分の子どもを持つ機会に恵まれようがそうでなかろうが、年齢とともにだんだん自分のためだけには頑張れなくなって、次の世代のために、という気持ちが自分を動かすエネルギーになっている気がします。
作った本人は当初、この曲の力を信じていなかったようです。しかしSNSにアップした途端、予想を超えた反響があったとのこと。
誰しも良い人間になろうと努力を続けていますが、完全な人間など存在しません。じっさい私などもこの歌を口ずさむと、ほんの少しだけ心が軽くなるのが分かります。Gから始まるメジャー調のメロディーもさることながら、やはり心の中でモヤモヤしていたものを吐き出せて、気分がすっきりするのです。
そう言えば、私の学生時代の友人の娘が幼稚園に通っていた頃のこと、お母さんが「幼稚園の先生は”とっても良い子ですよ”って言ってくれるのに、なんでメイちゃんはおうちでそんなにわるい子なの?」って訊くと、「ママ、いつもいい子じゃいられないのよ(-"-)」って答えたという話を思い出しました。いや、これはちょっとちがうハナシだったかな(ノ≧ڡ≦)
ウッシー自身によれば、SNSに歌や詩やイラストなどをアップしてはいるものの、それは誰かに対しての発信というよりも、自分の心を言語化して自分の現在地を確認したり、将来の自分に読ませるための日記のような感覚なのだとか。じつは私が書くこのブログもまったく同じ目的なのです。
そのときの自分は、どこに出かけたのか。何をしたのか。何に心が動いたのか。何を大切にしていたのか。
いずれ仕事をリタイアして、ヒマを持て余した日の晩酌どき、自分の顔の皺を手でなぞるようにチビチビ読み返してみたいのです。
彼が行っている自分の内面を観察して記述する試み。醜い部分にもきちんと光をあてて受けとめる作業はなかなかしんどいことだと思います。自分の醜い部分は一瞬見たような気がしても、記録しておかないとだいたいは都合よく忘れて行くもの。彼がそれをわざわざ公開するのは、自分と向き合う習慣のない人に対しての「内観のススメ」でもあるのだと思います。
これもウッシーが描いたイラスト。タイトルは「支障のない溜まり場」だそうです。
で、今回は「ろくでなしのうた」とはちがう曲を貼っておきます。
私はこの曲の最後の「あなたは生命の奴隷」という一節が気に入っています。
]]>
ちょっと前にも拙ブログで紹介させて頂いた音楽家のウッシー。小学生の頃から、おかあさんの付添いで来院していた彼もすっかり立派な大人になりました。
おもにパーカッショニスト、そして音楽療法士として活動している彼ですが、最近ではときどきSNSに自作の詩や曲やイラストをアップして、表現の可能性を探っているようです。それまでに存在しなかった何かを残した表現者は、だいたい20代のうちに衝撃的な登場を果たしているように思います。その後も継続して活躍するアーティストも多いのですが、やはり瑞々しさは年齢と共に失われていくような気がします。世に出る、出ないは別にして、今現在しか持ちえない感覚を作品に残そうとするウッシーのトライには最大の賛辞を贈りたいと思います。
彼がipadで描いた絵。
少し前のこと、ツイッターのタイムラインに彼が自宅で撮った動画がアップされました。ギターを弾きながら酔っぱらった感じで歌う彼のこの歌は、衝撃的でした。
「ろくでもないうた」
ろくでもないロクデナシ 誰かのために生きることもせず
ろくでもないロクデナシ 死にたくないから生きている
カネが欲しいな 翼はいらないな
おんがくが聴きたいな メシも食いたいな
ろくでもないロクデナシ 誰かのために生きることもせず
ろくでもないロクデナシ 死にたくないから生きている
動物としての彼は生を望んでいるものの、人間としての彼は死を望んでいる感じが伝わって来ます。
と言うのも、彼はひまさえあれば歴史・文学・哲学を独学で勉強して人間というものを自分なりに体系づけて理解する努力を続けており、今は人間の業の深さに絶望しているタイミングなのかなと。学校では絶望へ誘導するような教育はしませんものね。
学校は社会に必要な人間の製造工場のようなもの。そこでの勉強は良くも悪くも洗脳だと感じていた私も、彼と同じ段階を通過した覚えがあります。フロイトだったかラカンだったかは、”心は言葉で出来ている”と言っていました。学校で教わる〇×式の言葉で心が出来上がった人たちが作ったこの社会。そこに適応出来なかった人の心が、〇×式の脳で理解出来るわけがありません。その人たちに寄り添うのも音楽療法士の重要な仕事のひとつなのです。
ウッシーは人から教わらずに自分の言葉を探し続けています。自分の現在の心を勇気を持って観察し、それを自分の言葉で記述する試みは、いつか自分を救い、ひと様を救うことになると思います。ほんとうの自分の人生は今の絶望の先にあるわけで、これからの彼の進化が楽しみです。
そしてこの「ろくでもないうた」。つい口ずさんでしまう私の愛唱歌になっています(^^)
※このブログの内容はウッシー校閲済みです。
]]>
名作とされる文学作品のひとつ、フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」。40年越しでやっと読破しました。と言うのも、大学生の頃にいちど上巻を読み終えたものの、下巻を買うお金がなかったとか近所の本屋さんに在庫がなかったとか、まぁそんなような理由で途中棄権。20代後半のサラリーマン時代に再び通勤電車の中で上巻を読み終えたものの、箸休めに他の本を読み始めてしまい、そのまま尻切れトンボに、、なにせ上下巻で1,200頁近い大作ですから、集中力が持続しない私には両巻読破はとてつもなく高い壁だったのです。
先月から続く緊急事態宣言。なにか有効利用できないものかと、不謹慎ではありますが仕事中に2週間かけてこのたびやっと上下巻を読破しました。
有名な作品ですので、あらすじはご存じの方も多いでしょう。主人公の大学生ラスコーリニコフが、”選ばれた人間は大きな目的のためなら凡人を殺す権利を有する”という独善的な論理で、ある老婆を殺してしまいます。論理的には正しかったはずの殺人で罪の意識を感じてしまいそうになる自分を許せず苦しみ抜いた彼は、ある信心深い娼婦ソーニャの導きで自首。自分ではその殺人を罪と認めないまま淡々と事実を供述。当然懲役を食らうわけですが、娼婦は無償の愛で彼を許しそして導くべくシベリアの刑務所の近くに移り住み、ついに彼に罪を自覚させてしまいます。そしてお互いへの愛を確信したふたり。刑期を終える7年後には、たぶん結婚しちゃうんだろうなと予感させる、まさかのハッピーエンドでお話は終わります(◎_◎;)
「どうしてそうなったのか、彼は自分自身でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足元へ突きとばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。」
刑務所へ面会に来た彼女に対して、いつもつっけんどんな態度だった彼が衝動的に取った行動がこれ。空想家がいくら屁理屈で武装しても、結局母性には敵わないというオチかなと。しかし、ラスコーリニコフの実の母親は、子供の頃から飛びぬけて優秀で自慢だった息子の罪を知るや精神を病んでしまいます。理想の母性は実の母親の中に存在するとは限りません、いやそうでないことの方が圧倒的に多い気がします。そのことこそが子の自立につながるのかも知れません。しらんけど(^^;
たしかに名作と呼ばれるだけの読み応え。長編なのに冗長なところはなく、登場人物に同化してみたり、哲学的な示唆に導かれて思索に耽ったりしながら、1200頁の長旅をしっかり味わえました。19世紀のの首都サンクトペテルブルクの街の風景や石造りの建物のひんやりした質感が肌に感じられるよう。洗剤や柔軟剤などのケミカルな香りのしない、人間らしい暮らしの匂いの満ちた時代にトリップしたような感覚になりました。
本編もさることながら、解説を読んでドストエフスキーのぶっ飛んだ人生にビックリ。処女作が文壇の大御所に絶賛され、時代の寵児となった彼はすっかり増長しました。その後の作品が大御所に批判されると大御所の派閥を離れ、こんどは暴力をも辞さない革命的な結社に参加。逮捕されて死刑の判決を受けるものの、特赦でシベリア送りに。きびしい獄中生活、長く苦しい内省ののち空想社会主義者からキリスト教者へと彼の内部で価値の転換が行われました。懲役やら徴兵やらで10年もロスしてシャバに戻るのですが、ギャンブルと激しい女性遍歴で生活は無茶苦茶。借金返済のために時間に追われて作品を書く日々。この罪と罰の後半部分も口述を速記してもらって書き上げたのだとか。ほんと天才という生き物は理解不能です。
さて、首都圏の緊急事態宣言早期解除は見合わせられましたし、つぎはトルストイいてみよか!(≧▽≦)
]]>
パソコンの不調が原因で、ブログの更新間隔が3週間も開いてしまいました。やっと問題が解決しましたので、ひさしぶりに何か書こうと思いましたが、ネタを思いつきません(^^;
困ったときはとりあえず散歩。気持ち良く晴れていた昼休み、院から徒歩数分の石神井公園を歩いて来ました。
都立石神井公園は2つの大きな池を中心に、深い緑が広がる地域の人々の憩いの場所です。この1月6日、上の図の右側の石神井池(通称ボート池)の掻い堀りに向けた排水が始まりました。
掻い堀り(かいぼり)とは、池や沼の水をくみ出して泥をさらい、魚などの生物を獲り、天日に干すこと。栄養塩類を含んだ泥や水を排出し、池の底を空気にさらして微生物による分解を促進することで、水質を浄化する効果があるのだそうです。
2月の下旬にはもう湛水が始まり、いつも通りのボート池に戻ってしまいますので、ちょっと非日常な風景を見てみようかなと。
池の畔を歩いていると、大きなアオサギがわずかな水たまりに取り残されたコイを捕まえたところに遭遇。「いや、チミそれイケんの?」なサイズのコイを飲み込もうとするのですが、その大きさや重さに堪えかねて何度も取り落としてしまいます。それでも最後はきっちり飲み下しました。幼稚園のお散歩で通りかかった園児数十人も固唾を飲んでその様子を見つめていました。若い男性の先生も、子どもたちにこの光景を見せる意味を感じたのでしょう、先を急がせず一部始終を観察させていました。
三宝寺池も一周して来ました。この三宝寺池は平安〜室町時代の武家・豊島氏の居城であった石神井城を守る天然の堀でもありました。人工のボート池とちがってこちらは自然に出来た池。古来禁猟地であったことから草木が繁茂。「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されています。
池の周囲は木道が整備されているので、足腰にやさしくウォーキングに最適です。
園内には水彩画を描く方や野鳥の写真を撮る方がたくさんいらっしゃいます。集中していれば寒さは感じないそうです(^^)
せっかく近くにこんな素晴らしい公園があるのですから、患者さまのみなさんもお天気の日にはぜひお散歩しに行ってくださいね〜(*^-^*)
]]>
緊急事態宣言の発令で私の書斎と化した院内では、先日加入したばかりのスポティファイ・プレミアムが大活躍。まぁまぁの音量でいろんな音楽を聴きまくっています。
知らなかったミュージシャンの知らなかった楽曲に出会うのも楽しいのですが、ときにはなつかしい曲も聴いたりします。きのう40数年ぶりに聴いたのは、山崎ハコ。
彼女を知ったのは高校1年の頃でした。土佐湾沿いを走る国道55号線をバスで50分かけて通学していた私は、ときに退屈してしまって、漁師の親戚宅のまん前のバス停で途中下車。今では漁協の組合長をしている、3〜4学年上のお兄さんのレコードを聴かせてもらうのが楽しみでした。彼はイケイケキャラのわりには永ちゃんは聴かず、ジェフ・ベックやロイ・ブキャナンなどのギターサウンド好きで、音楽の好みが私とドンピシャ。そこで初めて聴かせてもらったのが、リリースされたばかりの山崎ハコのアルバム「綱渡り」でした。いや衝撃でした。中でもタイトルチューンの「綱渡り」の歌い出しには鳥肌が立ったことを覚えています。
なぜ洋楽好きの彼がこんな辛気臭いレコードを買ったのかはいまだにナゾですが(^^;
16才、それまでの私は家族や社会に守られている安心感の中で過ごしていました。しかし、高校生になって環境が変わると自立の意識が芽生え始めます。今の自分やこの先の自分と向き合わざるを得なくなったとき、強い不安や孤独感に襲われました。まさしくそんなタイミングで出会ったのが山崎ハコだったのです。しばらくは毎日聴いていた記憶があります。
彼女の歌からも、彼女自身が同じように不安や孤独感と向き合っていることが伝わって来ました。私と2才しか違わないのに、もうそれを歌というかたちで表現して、人の心を揺さぶることが出来る彼女。共感しながらも、取り柄のない自分と比較してみじめな気持ちにもなりましたっけ。
彼女の歌詞は洗練されていません。おそらく本人も、心の中にあるブルースを言葉だけでは表現し切れていないもどかしさを感じながら歌っていたのではないでしょうか。なのでなおさら、歌唱に込められたものに力があるというか。いや、私にとって衝撃だったのは彼女の声そのものだったのかも知れません。その声自体に彼女のすべてが表現されているように感じたのです。
山崎ハコさんは、現在も歌手として活動されているようです。40才を過ぎた頃に所属する事務所が倒産し、一時はホームレスに近い極貧生活をしていたようですが、バイト先で流れる有線放送に乗った自分の歌を聴いて、もう一度歌うことを決めたそうです。
最近の音源をスポティファイで聴いてみました。もがきながら生きていた十代には解けなかった謎が解けたのでしょう、人や出来事への受け容れスキルを身に着けた彼女の声は、もう道に迷う者のそれではなくなっていました。それでもやっぱり、同じ世代で同じ時間を生きて来た彼女へのシンパシーは感じています。
]]>
あけましておめでとうございます。
年始早々、首都圏ではまた緊急事態宣言が発令されるとのこと。厳しい状況はまだしばらく続きそうですが、医療従事者や高齢者へのワクチンの投与が始まれば社会の不安は和らぐのではないかと、かすかな希望をたよりに日々を過ごして行こうと思いっています。
さて、お正月といえば箱根駅伝。今年は最終10区におどろきの展開が待っていましたね(@_@)
戦前にはもしや、と期待した12年ぶりの母校の優勝は、思わぬかたちで実現しました。大差に広がった9区を観終わったところであきらめて家事に着手。ひと息ついたところでテレビをつけ直すとレースも残り7km。差は2分を切っており、それこそ手に汗を握りながら応援しましたっけ。
優勝候補筆頭の青山学院は主力2名を故障で欠いて苦しみました。同じく駒大も4年生の主力2名が出走できず、谷間世代と言われた3年生を起用せざるを得ない状況。ところがその3年生3人が快走を見せたのです。彼らがあきらめずに前を追った結果、創価のアンカー小野寺君に大きな精神的プレッシャーがかかり、本来の走りが出来なくなったのではないかと金哲彦さんは分析していました。
それにしても今大会の創価大学の健闘は驚きでしたね。高校時代の実績では中位の選手がほとんどで、同校は昨年度の記録会にもほとんど出走していません。いわゆるダークホースだったのです。ところが、どの選手もそれほどスピードを感じさせないフォームながら後半まで安定した走りを維持し、9区まではミスなく襷をつないで行きました。
しかし今大会の結果は箱根駅伝”あるある”なのです。有力校の選手たちは長距離競技の花形である5,000mや10,000mに向けたスピード練習に重きを置くのがふつうで、距離走はそれほど行っていません。ところが過去に番狂わせの優勝を遂げたときの駒大、東洋大、青学大、拓大、日体大などは箱根に合わせてひたすら距離を踏み、結果につなげたのです。
しかし、箱根で数年結果を出すと、高校の成績上位の選手が入学するようになります。その選手たちの卒業後のキャリアのために、どうしてもトラックの練習が中心になり、箱根での成績が振るわなくなります。現在苦戦している名門校の日大、中大、日体大などもそのパターンかと。そんなこともあって数年単位で有力校が入れ替わっていくところも、箱根駅伝が飽きられずに人気を維持している理由のひとつなのかも知れません。
高校時代の私は、オートバイやら音楽やらにうつつを抜かし過ぎて、ほとんど勉強しないで過ごしました。授業中は、うららかな陽射しで水面がキラキラ光る土佐湾に面した教室で毎日爆睡。追試や補習はあたりまえでした。3年生の秋になってもやりたいことも決まらず、憧れていたアメリカへ移住する希望を父親に伝えたところ、「ただ現実から逃げたいだけだろう!」とビンタ。たしかにそれは父親の言う通り、具体的なビジョンもない現実逃避からの発想でした。
その後、ただ都会で遊んでみたいというハナクソな動機から大学を何校か受験しましたが、模試の評価で調子に乗って選んだ大学はぜんぶ不合格。日程的に残っていたのは駒澤大学の二次試験だけでした。浪人は許さないと言われていた私は締切日直前にあわてて願書を提出。市民ホールで開催予定だった、バンド仲間たちとのコンサートの練習の合間を縫って上京し受験。なんとか合格しました。
当初は宗教系の大学へのアレルギーからいやいや通っていましたが、勧誘してくれた音楽サークルに入部してからは、ハナクソな欲求はバッチリ満たされ、充実した学生生活を送ることが出来ました。相変わらず勉強は嫌いで卒業までにはうっかり5年もかかってしまいましたが(^^; あ、サラリーマン生活を経験したあと入学した鍼灸・接骨の学校では、それこそ真剣に勉強しましたヨ!
私よりひとつ年上の大八木監督は、家庭の事情で大学には進学出来ず就職したものの、箱根駅伝への憧れから24歳で駒大の2部に入学。その年に卒業した私とはすれ違いでした。彼は、昼間は川崎市役所で働きながら箱根駅伝に3度出場し、2度の区間賞を獲得しました。卒業後は実業団を経たあと請われて母校のコーチに就任。安定した会社員生活を捨てての決断には相当迷いがあったとのことですが、低迷する母校へ恩返ししたいと決断しました。就任2年後の1997年に復路優勝。2000年にはついに総合初優勝を果たしました。
不真面目な私と努力家の大八木監督、同じキャンパスを歩いたことがあることくらいしか彼と重なるものはありません。しかし、若い頃にはリアルハナクソだった私も、誰かのために役に立ちたいと心を決めてこの道30年。少しは彼にシンパシーを感じてもバチは当たらないのかなぁ、などと苦笑いしながらこれからも母校を応援して行きます。
]]>
中学時代、FMで初めてハードロックを聴いて音楽に目覚め、わりと真剣に音楽を聴いて来年でちょうど50年になります。
今までは自分好みの新しい音源を見つける方法は限られていました。友人の紹介、FM放送、最近は買いませんが音楽雑誌の推薦文などなど。
そんな音楽好き原始人の私を見かねて、音楽家の友人ヒロシくんがブルートゥースのトランスミッターをプレゼントしてくれました。治療がてら来院した際に、数分の作業でパソコンとトランスミッターと院のオーディオ機器を接続。そして音楽配信サービスのSPOTIFYをインストールして無料体験を開始してくれました。
SPOTIFY、今年1月の時点で、配信楽曲数では同じ音楽配信サービス大手のアップルミュージックの7000万曲に対し、5000万曲と少し後れをとっているものの、利用者の楽曲再生パターンから好みの楽曲をリコメンドする機能においては、SPOTIFYのほうが優れています。ハナから聴きたい曲が特定できているのであればCDを買えば良いわけで、私が音楽配信サービスに期待するのは、今まで出会う機会のなかったミュージシャンや楽曲に感性を刺激してもらうこと。結果、大満足! ヒロシくんに感謝です(^^)
数日間利用しただけで、見たことも聞いたこともないミュージシャンの、私好みの楽曲に何曲も出会えました。また、知ってるミュージシャンの知らなかった活動も。その人の名はジョン・マクラフリン。
彼の名前は高校時代から知っていましたが、その頃の私はもっと分かりやすいロックやブルースに夢中で、ジャズ色の強い彼の作品は背伸びをしても理解できませんでした。
大学の音楽サークルで先輩たちから影響を受けて聴き始めたジャズ。マイルス・デイヴィスの革新的なアルバム、「ビッチェズ・ブリュー」でのマクラフリンの演奏には圧倒されました。その後もエレクトリック・マイルスの代表作「オン・ザ・コーナー」「ジャック・ジョンソン」でもその存在感は凄まじく、彼抜きではマイルスのエレクトリックなアプローチはまったく別の物になっていたはずです。
’80年代には、パコ・デ・ルシア、ラリー・コリエル(orアル・ディ・メオラ)とスーパー・ギター・トリオで活動。スパニッシュ・テイストを基調とした、超絶技巧の3人の演奏は息が止まるほどスリリングでしたっけ。
マイルスやパコとの時代のアルバムは、今でもときどき始業時や終業後の作業中に院で流していました。
今回、SPOTIFYのおすすめで初めて聴いたのはマクラフリンが今年1月にリリースしたアルバム「Is That So?」。
彼が’70年代半ばにインドのミュージシャンたちと結成していたSHAKTI(REMEMBER SHAKTI)のメンバーだった、ヴォーカルのシャンカール・マハデヴァンとタブラのザキール・ハッサンを迎え、マクラフリン自身はギターシンセを演奏しています。SHAKTIやマハビシュヌ・オーケストラ時代の音の洪水のような演奏とは正反対の、押しつけがましくないアプローチ。
マクラフリンは超絶テクの持ち主ではありますが、このアルバムやマイルスの作品に参加したときのように、音数を削った演奏のほうが好きだなぁ。
すっかりマクラフリンのハナシになってしまいましたが、SPOTIFYとっても使えます。スマホならずっと無料で使えますし、パソコンなら月あたりの日数限定で無料、12月31日までに申し込めば、プレミアムプラン(月額980円)が向こう3ヶ月無料だとのこと。私は迷わず申し込みました。なんで私が宣伝しているのかよく分かりませんが、おすすめです!(^^;
SHAKTI時代のライヴ映像。
]]>
いよいよ冬将軍到来。日本海側では雪が降り、東京でも北風が冷たくなって来ましたね。
最低気温が0℃近くなると林道の路面は凍結してしまいますので、ひょっとしたら年内のパスハント(峠狩り)・サイクリングもこの週末が最後になるかも、と早起きして出かけました。
朝8時の飯能駅前は気温3℃。スタートして1時間ほどはお日さまが隠れており、ネックウォーマーで口を隠して体温が奪われるのを防いで走りました。大附経由で峠をいくつかそのあと天目指峠で名栗みちへ下りて飯能駅へ戻る予定です。
フェイスブックへシェアすると、ブログの最初の写真が表示される仕様のようなので、まずは山サイクリングっぽい写真から(^^;
梅の里、越生から大附へ向かいます。
天に向けてぐんぐん伸びる梅の枝。空から地面から、生きるためのエネルギーを全身に受けてすくすく育つ姿は、老いを感じ始めた私には、まぶしいやら頼もしいやら。
ときがわ町大附(おおつき)あたりは、みかんの里。これからみかん狩りが最盛期です。
ここから1km強のところに”上谷の大クス”があります。大クスが地名の由来になっても不思議はないところ。はじめてここを通ったときから私は「附」は「槻」が転じたものだと思い込んでおり、槻はケヤキの別名なので変だなと感じていました。
数年越しの疑問を晴らそうと調べてみたところ、このあたりは天正年間に”大附氏”という豪族?が居住していたのが地名の由来とのこと。けっきょく大クスは関係なかったんですね(^^; スッキリしました。
こちらも大附で撮った写真です。上のミカン園の木はよく手入れがされていますが、好き放題に育ててしまうとこんなことに(@_@)
さて、林道奥武蔵支線へ。 ゴールの奥武蔵グリーンラインは昨秋の台風の影響でまだ寸断されており、ほとんど車が通れない状況。そこへ取りつく奥武蔵支線も、民家が途切れたあたりからは深い静寂の中を走ります。昨年にはときがわ町の平野部でもクマの目撃情報があったようですので、家中探し回って見つけた熊鈴を取り付けました。観光地でベタな土産品を買うことなどほとんどない私ですが、震災の3年後に東北地方をサイクリングした際、1日だけ白神山地をトレッキング。さすがに不安になり現地であわてて買ったのがこの鈴でした。
もう改修は終わっているのですが、いまだに通行止めの表示が道路脇の中途半端な位置に置きっぱなしになっていました。
通りかかったおまわりさんに訊いてみたところ、「通っても大丈夫ですよ」と答えてくれましたので、遠慮なく。
ゴール間近の、お気に入りのビューポイント。デジカメの電池が切れてしまったのでスマホ写真です、、
刈場坂峠では、カブ125の男性が思案顔でスマホとにらめっこをしていたので声をかけたところ、「道に迷ってしまったんです」とのこと。どうやら秩父方面に行きたいらしいのですが、尾根伝いで秩父へつながる定峰峠は今も通行止めで困っていたようです。刈場坂峠をそのまま下れば正丸トンネルに出ることを教えてしばらく立ち話。
70才くらいかなと感じていましたが、訊いてみると77才とのこと。カブのほかに、車重が250kg近いBMW1200GSにも乗っていると聞いてびっくり。なんたるスーパーなおじいちゃん。そこまで行くとあやかりたいような、あやかりたくないような(^^;
皇帝ダリアの写真を撮っていたら、ミツバチが。冬ごもりの前の貴重な外メシに機会なのでしょう。
浮かれた気分で過ごしたい年末年始ですが、こんどばかりは人間も家に籠るお正月になりそうですね。
気をつけてすごしましょうね。
]]>
世の中を覆う不安のベールのせいで、季節の移り変わりもろくに感じられないまま過ごしていましたが、初冬の朝のピリッとした空気のおかげで、ぼやけた頭がちょっとシャッキリした気がします。
数日前、自転車仲間で読書家のばたろう君に薦められた本を読み終えました。”鉄のゲージツ家” クマさんこと篠原勝之が書いた私小説「骨風」です。
クマさんのことは、1980年代の「笑っていいとも」に、スキンヘッドに着流しという個性的な風貌でレギュラー出演しているのを見て知りました。ボソボソっと面白くてするどいコメントをするおじさんという印象でしたっけ。彼の作品は何点か写真で見たことがあります。アートに関する感受性に自信がない私などにも分かりやすい作風で、言ってみれば子供の頃にイメージする巨大な鉄の造形物をそのままかたちにしてしまったような、ヒャッハ〜!な感じでした。
さてこの本、彼のむき出しの人間そのものが描かれています。ゴツい印象の風体とちがって、じつは非常に繊細な心を持つ人だったようです。ひょっとしたら、その心の柔らかい部分を覆おうとして鉄に憧れたのかも知れません。
生まれてくるなりジフテリアを患い、嗅覚と左耳の聴覚を失った彼は、元警察官で復員兵の父親に暴力を受け続けました。17才の頃、父親を殺すことより逃げることを選び、生まれ育った室蘭の街を離れてひとり汽車で東京へ。
暴力を振るわれた記憶しかない父と、ヤクザ者に身を落として金を無心に来る弟。父や弟に対して憎しみの気持ちしか持てないことに苦しんだ彼。父とは30数年、弟とは40年も縁を切っていました。父が亡くなったあと、手芸の創作が趣味だった母と同居して世話をしながら創作活動を続けるなか、その母が認知症に。
父の死、弟の死、何人かの友人の死、縁あって飼い始めた愛猫の死。この本は何人もの人の死について書かれています。クマさんはよほど死について思うところがあったのでしょう。
最後の項で、弟の納骨に立ち会う際、彼が認知症の母親に「誰の骨だか分かるか?」と訊くと、母親は「したって、死んだらみんなおんなじだもの、みんな仏さんだから」と答えます。母は認知症を発症する前から、人や出来事をゆるせる人でした。クマさん自身も本来は大らかな人。しかし、ふつうでも愛憎相半ばするのが家族。彼はこのとき、自分は死によってしか父や弟を許せなかったとをはっきり自覚したのだと思います。つまるところこの本は、彼の告解であったのかも知れません。
クマさんはある時期、ギタリストで小説家の深沢七郎が運営する”ラブミー牧場”に勤めていたことがあります。今でも工房には深沢の「人が死ぬことは 清掃事業だから 喜んでいいことだ」という書が掛けてあるとのこと。
ひさしぶりに深沢七郎の名を聞いて、昔観た映画「楢山節考」を思い出しました。長野県に伝わる姥捨て山の伝説を題材にした深沢の同名の小説が原作で、過去に2度映画化されています。以前に私が観たのは坂本スミ子・緒形拳主演の1983年版。今回、1958年の田中絹代・高橋貞二の方も観てみたくなり、アマプラで鑑賞。
親が70才になったら、口減らしのために姥捨て山へ連れて行くのがしきたりの村で、「まもなく齢が足りるので早く連れて行け」と息子にせがむ母と、連れて行きたくない息子の葛藤のお話です。田中絹代も坂本スミ子も、この役を演じるために前歯を何本も抜いたり削ったりしたのだとか、、(◎_◎;)
リアリティのある1983年版と違って、こちらは舞台のお芝居のような仕立て。ナレーションは三味線に長唄です。全編セットでの撮影なのですが、そのセットが素晴らしくて、観ているうちに幻想的な民話の世界へいざなわれました。
クマさんにしろ、深沢七郎にしろ、彼らからは、死を遠ざけず身近に感じて過ごすことで、生きることにリアリティが生まれるというメッセージが伝わって来ます。そこは私もとても共感するところではあります。
]]>
ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」。同じくノーベル文学賞受賞者のガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」と並んで、若い頃からいつかは読まねばと思い続けていた小説です。どちらも大作なので、自分にしっかりとした準備が出来ていないと跳ね返されそうな気がして先延ばしにしていました。「百年の孤独」については2年前に読み終え、それはそれは期待以上の大きなインパクトを受けました。
さてこの「怒りの葡萄」、もう80年も前の作品ですしネタバレしても大丈夫ですよね(^^;
1930年代、大恐慌時代のアメリカ南部オクラホマ州で、不況と日照りと砂嵐に苦しめられた農民たちが、愛着のある土地や家を銀行に明け渡さざるを得なくなりました。カリフォルニアに果物や綿花の収穫の仕事があると聞いて、マザー・ロードとして有名な国道66号線をひたすら西へ向かいます。主人公のジョード家が、馬や農具を売って手に入れたオンボロの「ハドソン・スーパーシックス」は、とても小さなトラック。そこに家族13人と家財道具の一切を乗せて2,000km以上の長旅。途中で主人公の祖父・祖母は力尽きて亡くなります。
どうにかたどり着いたカリフォルニアは、南部や中西部から詰めかけた農民たちであふれ、農園主は彼らの足元を見て
一時雇用の時給は下がるばかり。屋根のある家にも住めず、家族みんなで一つのテントであちこちの農園を転々としながら、どうにかその日の食べ物を手に入れるのが精一杯の稼ぎしか得られません。賃金交渉をするためにストライキを呼びかける指導者的な人物も現れますが、農園主の息のかかった保安官助手に次々殺されてしまいます。
いくつかの農園を渡り歩いてたどり着いた、貨車を再利用した農園宿舎の中。この一家の身ごもっていた娘が死産をしてしまいます。そこには飢えで今にも命のつきそうな男とその息子が居合わせていました。「お父さんは僕に食べ物をみんなくれて、こんなになってしまった。僕はそれを知らなかったんです。助けてください」と息子が懇願。娘は失われた赤ちゃんにあげるはずだった乳を、その男にやさしく与えるところで物語は終わります。
何度も訪れる生死を分けるような試練。ギリギリまで追い詰められたときに、人間としての誇りと動物としての生存への執着との間で生まれる葛藤。ある者は生き延び、ある者は死んで行きます。アメリカ文学らしく客観的な視点・乾いた文体ではありますが、作者の抑えきれない人間愛が感じられました。
スタインベックのノーベル賞の受賞理由は「優れた思いやりのあるユーモアと鋭い社会観察を結びつけた、現実的で想像力のある著作に対して」。
当時は、富の寡占は進行するばかりで社会保障は不十分。未成熟だった資本主義の負の側面を生々しく描いたこの作品は、アメリカという国の歴史の一部の記録だと思います。
この本を読んだ直後に、アマゾン・プライムビデオで同作品の映画も観ました。監督は黒澤明が心酔していたジョン・フォード。主人公のトム・ジョードを演じたのはヘンリー・フォンダです。細部のニュアンスに至るまで原作がかなり忠実に再現されており、この監督が ”詩情豊かな映像の詩人” と呼ばれるのも納得でした。
ボブ・ディランにも多大な影響を与えたオクラホマ生まれの吟遊詩人ウディ・ガスリーは、この映画を観て「トム・ジョード」という曲を一夜で書き上げたのだとか。
1940年代には、まだ文字の読み書きが出来ない人も多く、マスコミも未発達でした。映画やウディ・ガスリーなどが歌う物語歌は、起こっている出来事を伝えるニュースのような役割も果たしていたようです。
「アメリカでもっとも有名な小説」ともいわれる本作、当院に通院されているアメリカ人青年も「もちろん読みましたよ!」とのことでした。今でも、自分たちの国がどうやって出来上がってきたかを知る資料としての役割を果たしているのですね。
私もたいへん勉強になりました。そしてヘンリー・フォンダかっこ良かった!(^^)
]]>
3年前のちょうど今頃のこと、紅葉を観ようと雁坂トンネルあたりまでサイクリングに出かけたものの、色のピークは1週間ほど前に過ぎており、残念な思いをしました。思い起こせばその年も前週はモンテラック・ツーリング。もちろん紅葉よりも仲間との時間を優先させたことに後悔はありません(^^) ただ、今年はここまで冷え込む日が少なかったので、ひょっとしたらチャンスありかなと、ダメ元で出かけて来ました。
一番の特急ラビューで西武秩父駅へ。この日は晴れの予報でしたが、8時過ぎの武甲山上空にはまだ重めの雲が残っていました。
浦山ダム前を通過。このあたりで紅葉ドンピシャということは、ここから1,000mほど標高が高い奥秩父あたりでは、おそらくもう、、(^^;
秩父往還を10kmほど走ると贄川宿。こちらは「かかしの里」だそうです。
贄川宿といえば、長野県塩尻市にも同じ名前の宿場町があります。そちらの由来は彼の地に温泉があったので”煮える川”から転じたもの。
こちらの由来は「ほとばしる荒川の流れが煮えるように見えたから」説と「神饌の魚を捕った川だから」説があるようです。
ときどき見かける青味の残ったこの落ち葉は何の葉でしょう。 クヌギやミズナラ、コナラなどと違い、辺縁が丸みを帯びていて肉厚の葉。そこだけ路面が明るく光っているように見えるので、出逢えるとうれしい気持ちになります。どなたか詳しい方、思い当たれば教えてくださいませ〜。
参考までに木肌。
葉。
栃本集落に上がって来ました。薪の切り口が細胞の配列のよう。
集落からの眺め。 秋の風や匂いを感じながら景色に見とれていると、数発の銃声が。住民のお父さんに尋ねたところ「クマかシカじゃねえかなぁ」とのこと。
そう言えば、以前大血川林道を三峰神社へ下っているときに道路の真ん中にクマのフンがありましたっけ。クマ鈴持ってくればよかった(◎_◎;)
同じく栃本で。
上の写真を撮っていたら、腕に一枚のもみじが。 信じてもらえないのもごもっともですが、ヤラセではありません(≧▽≦)
目的地の豆焼橋に到着しました。やはり今年もピークをはずしてしまったようですが、前回に比べればまだ少し秋の色彩を楽しめました。 早く到着しないと逆光になってしまうので大急ぎで上って来ましたが、間に合わなくて見づらい写真ですみません(^^;
豆焼橋から見上げた雁坂橋。あの橋の右端が山梨県との県境である雁坂トンネルの入り口です。全長6,625m、一般国道のトンネルでは東京湾アクアトンネル(R409)に次ぐ長さだそうです。
山深い奥秩父では、13時くらいになるともう山影は寒いくらい。
予約してあった15:24のラビューで帰路に。いつも走る奥武蔵よりももう一段階くらい自然が濃い奥秩父は、ちょっと怖ろしいくらい幽玄な空気感です。自宅からのアクセスもわるくないのでまた来たいけど、もうすぐ寒くなるから次は来年かな(^^)
]]>
毎秋、山が色づく頃になると開催される、山中湖のペンション「モンテラック」をゴールにするサイクリング。今年は開催が難しいかなと思っていましたが、政府による「Go To トラベル」キャンペーン実施の後押しもあり、代表のとよさんから「やるよ!」の連絡。土曜日の午前中にチームのみんなは富士山一周サイクリングしている頃、私は半ドンで診療。昼食もあと片付けもやっつけで済ませ、夕食に間に合うようにオートバイで出発しました。
今年は次男のSRではなく、長男のニンジャ400を借りて来ました。いつも中央道の相模湖あたりで身体が冷え始めるので、ここ藤野のパーキングエリアでのホットコーヒーを楽しみにしています。
仲間のシゲさんがモンテラックから撮った”ダイアモンド富士”。これだけ山中湖に通っているのに、私はいまだに出会えません。
日が暮れてまもなく、私もモンテラックに到着。
夜にはいつものように、ペンションのオーナーでチームメイトのはんくまさんによるフルコースに舌鼓。
みんなの一杯目のカヴァは、長かった闘病生活をりっぱに過ごして昨秋に召されたムッシュKに捧げられました。今でもまだ隣りの席に座っているような気がして、、
今年はイノッチのサイクリング仲間の鳥Uさんとイチローさんも参加。楽しくお話しさせて頂きました。またご一緒する機会を楽しみにしてます(^_-)
いつもは日付が変わるまでみんなとおしゃべりするのですが、齢のせいか今年は早く眠くなってしまい、朝も6時過ぎには目が覚めてしまいました。今回は欠席の古希超えのメンバー、エリックさんがよく朝の散歩をされていましたが、私もついに仙人枠に達してしまったようです(^^;
この日の朝は深い霧が立ち込めて、モンテ前の森は幻想的な雰囲気でした。
私と同世代のまあるさんも6時起きで散歩に出かけていたとのこと。山岳部出身の彼は40分くらいかけてモンテの裏山へ登ったようです。写真はまあるさんから。同じ時間に私はこの雲海の下を徘徊しています。
またまた私と同世代のアオさんも、早起きして湖畔をサイクリングしてたんですって。気温0℃なのに!?(@_@)
彼は写真や水彩画も上手なアートの人。やっぱり執念がちがうなぁ。写真は彼の投稿から拝借しました。
9時過ぎには解散して、それぞれの日曜を楽しみました。
私は箱根・芦ノ湖スカイラインから西湘バイパス経由で帰宅の予定。
山中湖より少し標高の低い箱根あたりは、来週末が紅葉の見ごろかもしれません。
休日でも意外に交通量が少ない芦ノ湖スカイラインはスポーツライドを楽しむオートバイライダーがたくさん。インベタでコーナーリング中のバイクが小さく写っているのが見えるでしょうか。
13時過ぎには無事帰宅して、楽しみにしていた伊勢の大学駅伝を観ました。そして夜には井上尚弥のボクシング! どちらも大満足の結果でした(^^)
思えばコロナ禍の中、自宅以外でお酒を飲むのは2月以来のことでした。患者さまに何かあってはたいへんなので、この先もしばらくの間、なるべく自粛を継続しようと思っています。早く思い切りハメを外せる日が来るといいですね!
]]>
前々日までの予報では50%の雨確率だった日曜日、思わぬ好天に恵まれましたので、奥武蔵の山方面へサイクリングに出かけてきました。先々週とその前の週も山サイクリングしたのですが、そのときはチームのみんなと一緒。置いて行かれないように必死で写真を撮る余裕もありませんでした。この日はひさしぶりにフロントバッグにカメラを入れて出発です。
午後からはまた雲が出てくるとのことでしたが、早朝に雨が上がったばかりの高い空は清々しかった!
”上谷の大クス”の入り口近くが路上駐車の車でいっぱい。聞いてみると、路地を入ったところに出来たパン屋さんが昨夜テレビで紹介されたとのこと。並んでいるのはシニア層がほとんどでした。食べ物のために並ぶ習慣がないのでこの日はパスしましたが、落ち着いた頃にまた寄ってみます。何しろ自分も立派なシニア層ですしね〜。
パン屋さんのすぐ先のおうちの塀に可愛い靴が干してありました。写真を撮ろうとしたら、ちょうどお父さんとお嬢さん2人が散歩へ出かけるところだったらしく、玄関からにぎやかな声が。ふたりとも、どれだけ自分の長靴が気に入ってるかを競うように熱心に話してくれました(^^)
大附あたり。雨上がりで緑が濃かった。
昨秋の台風で通行止めだった私のお気に入りの林道。この先に別荘を持つ患者さまから通行可になったと聞いてきたのですが、まだ工事中の箇所がありました。
9kmの上りを終えてまもなくゴールというところ。あともう少しすると山肌が紅葉で染まります。
ランチは名栗みちにあるカフェ「ワイズ・ガーデン」で。お店の前はいつも通りかかってはいたのですが、先々週のチームライドで初めて寄らせてもらいました。この日はひとりでリピート。前回は美味しいワッフル、今回は野菜がたくさん添えられた煮込みハンバーグを頂きました。ハンガーノック寸前でしたので、丸呑みの勢いでペロリン(^^)
お会計の際に、マスターが「自転車の方に」と羊羹をくれました。前回もらえなかったのは人数分の用意がなかったからかな(^^;
この日は80kmで1,300mアップ。ゆるゆるですがしっかりリフレッシュ出来ましたので、今週も仕事がんばれそうです!
]]>
amazonプライムビデオで「パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト」(2014年 スペイン)を観ました。
”パコ・デ・ルシア”は、スペイン・アンダルシアが生んだ世界的なギタリスト。ジャズ好きの方なら彼のことはきっとご存じだと思います。2014年に滞在先のメキシコで心臓発作で亡くなりました。享年66でした。
アンダルシア出身なのに、なぜフラメンコ・ギタリストと書かないかというと、パコはフラメンコ・ギタリストとして世に出たあと、ジャズをはじめとする、さまざまなジャンルのミュージシャンとの共演から刺激を受け、ついには彼固有の音楽を作り上げて世界的な評価を受けたからです。
私がはじめて彼の演奏を聴いたのは大学1年生のときでした。前年にリリースされたアル・ディ・メオラのアルバム「エレガント・ジプシー」に収録された「地中海の舞踏」における、ディ・メオラとのアコースティックギターのデュオ。鳥肌が立ちました。彼はこの演奏で世界的にその名を知られるようになり、伝統的なフラメンコのコミュニティから批判を受けながらも、自分の表現したい音楽を追求して行くことに。
パコの演奏の特徴は、正確無比なリズムとピッキングの強さ。一音一音の粒立ちが煌びやかで鋭く、凄みさえ感じます。
彼は譜面が読めませんでした。クラシックの名曲「アランフェス協奏曲」を録音したときも耳コピでこなしたのです。
何か純粋に音楽が楽しめなくなるような気がして音楽理論を勉強することを拒絶して来た私なども、ちょっとシンパシーを感じます。でも、そんなことよりパコの凄いところはやっぱり顔かなあ(^^; 深く刻まれた皺とするどい眼光。自分に厳しく生きている人であることが伝わって来ました。
そんな風貌ですから、私はこれまでパコに対して自分にも周囲にも厳しい気難しい人、というイメージを持っていました。しかしこの映画を見て、彼が冗談好きのとても人間らしい人だったと知り驚きました。プライベートでの無防備な彼の映像が多いのには理由が。この映画の監督はクーロ・サンチェス、パコの実の息子だったのです。それどころかプロデューサーと脚本もそれぞれ娘姉妹だとのこと。納得でした。
いちファンとしては、孤高の人のままでいて欲しかったという思いもありますが、きっとオンオフの切り替えがしっかりした人だったんでしょうね。
もうひとつ驚いたのは、彼がリビングで練習しているシーンで写った足の形。なんと外反母趾だったのです。あれほど素晴らしい演奏が出来るのですから、アスリート並みの重力バランスで理想的な身体の使い方をしているのかと思いきや、前足部の横アーチが低下して、靴下を履いた足尖部がかなり狭くなっているのが見えました。足裏にバランスよく荷重出来ている人には見られない形。おそらく理想的ではない部分は強い体幹で補っているたのではないかと推察します。
「”ひらめき””は天から降りては来ないと気がついた。身体の奥からそれを感じたときに良い音が生まれる」
自分の内面と向き合い続けた彼の言葉には重みを感じます。
彼の音楽はこの先も、ずっと聴き続けていくことになると思います。
]]>
仕事柄、ご高齢の方々と接して約30年。私がこの仕事に転職したのはまだ30才の頃でした。会社員時代には、同僚にせよ取引先にせよ現役世代とのおつき合いがほとんどでしたので、当初はご年配の皆さんとどう接すれば良いのかと、とても緊張したことを思い出します。とは言え、私の場合きほん開けっ広げな性格なので、そんな緊張を忘れるのもあっという間でしたが(^^;
他院での勤務時代を経た後、この地に接骨院を開業して18年。長く通院されている患者さまも毎年ひとつづつ年齢を重ねて行かれます。院の開業時には現役の会社員だった方が今では70代後半になられていたり。患者さまの心身のコンディションを観察することも私の仕事のひとつです。加齢によってその人柄が少しづつ変化することを感じ取って、失礼ながらその印象を自分の記憶の中にファイルして行くことも、仕事であり趣味でもあり。
人は年齢と共に、人や出来事を”ゆるす力”が衰えてだんだん頑固になって行く方と、人(自分を含む)や出来事を”ゆるす力”が上がって行く方があります。
脳の前頭前野は「考える・記憶する・アイデアを出す・判断する・応用する・感情をコントロールする」領域。この前頭前野は30歳前後でもっとも大きく成長するそうで、たとえば若者が比較的無謀な行動をとりがちなのは、感情をコントロールする前頭前野の未成熟が関与している可能性が高いとのこと。しかしその30歳頃をピークに今度はだんだんと衰えて行き、高齢になると自制心がうまく働いてくれなくなる方が出てくるのだとか。幸い当院の患者さまは高齢になっても穏やかな方が多いのですが、ときどきニュースで見る”キレる老人”が出来上がってしまうのも、このへんに原因がありそうな気がします。
反対に、年齢とともに”ゆるす力”が高くなって、だんだん穏やかになっていく人も。そんな人には、いわゆる”知恵”が備わっている印象を受けます。
しかしそもそも知恵とはいったい何でしょう。知恵に関しては主る局在が存在するわけではないと思い、別の切り口から調べてみました。老年心理学を専門としている慶応大学理工学部の高山教授によれば、知恵とは「生活の中で遭遇する問題に対応するための熟達した知識である」と定義されており、知恵を獲得するためには5つの要素が必要だとのこと。それは、?多様な知識 ?状況分析および正しい戦略の立案の能力。これらは人生の前半から身に着くそうです。 加えて?背景を認識・想像する文脈の理解 ?多様的な価値観を尊重する価値相対性の理解 ?人生の不確実性を理解した上で最善の判断をする能力。これらは人生の後半に身に着くのだとか。人生の後半で身に着いていくという???は、まさしく"ゆるす力"に直結する内容ですよね。
ここに書いたことは、どれもインターネットで聞きかじったことばかりです。脳のことは未解明のことも多いので、異論もあるとは思いますが、だいたい納得できる内容であるように思いました。
人様のことをあれこれ言っている私自身も、まもなく61才。ちょっと前の括りならりっぱな高齢者です。自分の変化も客観的に観察・評価しながら、少しでも長く地域のみなさまのお役に立てるように頑張って行きたいと思います。
]]>
音楽家の友人ヒロシくんに薦められて最近ボン・イヴェールを聴き始めました。
ヒロシくんは、アコースティックとエレクトロニカを融合させた音作りが得意。彼の音楽は、名前はクレジットされていなくても、有名アーティストへの楽曲提供やCMなどでほとんどの方が耳にされているはず。最近では大手映画配給会社の作品で音楽監督を務めたりしました。ボン・イヴェールも手法はヒロシくんに近い感じですが、より内省的でほとんどビョーキとも言えるほど手間をかけた作品が多いのが特徴です。
”ボン・イヴェール”は、アメリカのミュージシャン ジャスティン・バーノンによるソロ・ユニットです。2012年には「Bon Iver,Bon Iver」でグラミー賞 ベスト・オルタナティブ・アルバム受賞。その前後にも何度もノミネートされていますので、すでに愛聴されている方も多いと思います。
彼は2006年に伝染性単核球症に罹り、仲間たちと組んでいたバンドを解散。彼女とも別れてウィスコンシン州の片田舎のキャビンで冬の数か月間を過ごしました。失意の中、有り物の楽器と録音機材を使い、すべてをひとりで制作した「For Emma, Forever Ago」を自主制作で500枚プレス。その「For Emma・・・」は大手音楽メディアに絶賛されて世界的な評価を得ました。デビュー作から彼をリコメンドしまくってるカニエ・ウェストは、「ボン・イヴェールは生存するアーティストの中でいちばん好きだ」ともコメントしているようです。それから現在に至るまでに発表したアルバムは4枚だけですから、かなり寡作なミュージシャンと言えます。
彼の作品をジャンルで括ることは不可能です。「フォークやゴスペルの要素が、、」なんて語る人もいますが、そんな分析はあまり意味がない気がします。そこにあるのは、まったくもって彼オリジナルの音楽なのです。
外の世界と自分との関わり合いではなく、自分の心の深淵を覗いて観察し、それを音楽というかたちで表現できる人。「i,i」のアルバムジャケットにも表れているとおり、フレーズやノイズをコラージュして時間や空間の遠近感を表現。聴く者を彼の精神世界へ連れて行ってくれます。アルバムを通して聴くと、ひとつの長いお話を聴いたような気分になるのです。
ヒロシくんの言葉を借りると「これはぜったいシラフじゃ作れない音楽だわ」だそうです。シラフが何を意味するかはご想像にお任せしますね(^^; 飛びぬけた才能への彼の多少の嫉妬もあるのでしょうが、ある意味私も同感です。正常な状態ではトリップできない世界を見せられてる気がするんですよねー。知らんけど(≧▽≦)
高度すぎる音楽性を持った作品はだいたい”ミュージシャンズ・ミュージシャン”と呼ばれて、業界内での評価は高くても一般ウケしないことが多いもの。なぜこのボン・イヴェールの作品が売れ続けているのかは、ナゾなんだよなあ(-"-)
]]>
先日、「スターリン批判」について書いた際に、「マオ 誰も知らなかった毛沢東」についても少し触れました。
「マオ」は、毛沢東の粛清のやり口のエグさがしんど過ぎて、上巻を読み終えたところでギブしてしまいました。しかし、どうやら下巻には、張作霖爆殺事件がソ連特務機関の犯行であったという、ドミトリー・プロホロフの主張を裏付ける内容が根拠を持って書かれているとのことなので、いつかまた挑戦したいと思ってはいるのですが(^^;
現在、中国との関係について考えることはとても重要な意味を持ちます。しかし、中国の歴史に関する教科書の記述は断片的なものでしたし、メディアによる中国関係の報道もいろんな配慮からかなり限定されたもの。身近に感じる中国の人といえば、爆買いする賑やかな富裕層の観光客の姿くらいで、言論統制が厳しい彼の国のことを知る機会はあまり多くないように思います。機会があれば、一市民の目線で見た中国の姿を見てみたいと思っていました。
この「ワイルド・スワン」は、「マオ」の作者であるユン・チアンが、祖母から母そして自分につながる、中国の激動の時代を生きた女性三代の苦難と、彼女たちを支えた深い愛を描いた実話です。哀しさ切なさの表現は女性らしい筆致でこちらの胸も苦しくなりますが、理想に燃える闘士としての在り方は男顔負け。読むうちにどんどん引き込まれて行きます。
彼女は中国共産党高級幹部を両親に持ち、自身も文革の際には紅衛兵に志願。しかし、毛沢東による政策変更や地方政府の権力闘争などで、両親が「階級敵人」として迫害の対象になった際には、家族全員が別々の農村に何度も下放されました。
当時は、政治的な迫害にしろ大躍進政策に起因する飢饉にしろ、民衆の大部分は何が原因で誰を恨めばいいのか、さっぱり分からない状況だったのですが、両親が高級幹部であるがゆえに知りえる権力闘争の本質と政治的な矛盾。そして自身が下肥にまみれながら過ごした数年間で感じた農民の苦境。情報がコントロールされていた当時、社会の最上層から最下層までを自分の目で見た人だからこそ書けた本だと思います。
「毛沢東思想の中心にあったのは、果てしなく闘争を希求する論理であった」とユン・チアンは分析しています。人と人との闘争こそが歴史を前進させる力であるとし、嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をたくみに利用して社会の緊張感を維持。そうして党の規律を保ったのです。隣人同士を監視させ、密告させるシステムは充分以上に機能しましたので、ほかの国の独裁政権のような専門の弾圧組織は必要ありませんでした。密告によって「階級敵人」をどんどん量産した結果、文革時の死者数は統計によっては2,000万人に上ると言われています。たしかに人間は横着に出来ているので、生活が保障されれば楽をしようとします。共産主義国においては監視システムは生命線。しかし毛沢東は完全にやり過ぎでした、、
1990年代に中国を開放路線に導いた?小平は、文化大革命をはっきり過ちであったと発言し、その後の教科書にも「毛沢東の誤った認識であった」と記述されていました。しかし、これが2017年の教科書検定においては、文革を肯定するような表現に改められたのです。また、まさしく文革世代の習近平は、「党政軍民学、東西南北中、党が一切を指導する」という文革時代に使われたスローガンを愛用することでも知られており、「毛沢東時代に過ちはなかった」と公言しています。
中国では王朝が変わるごとに、新王朝の都合の良いように正史を新たに編纂して来た歴史があるので、教科書の内容が変わるのは不思議なことではありませんが、ちょっと心配になる種類の変化です。
イデオロギーや宗教の違いはあっても、平和な世界の実現が世界中の人々の願いであることは間違いありません。それは大国同士が仲良くすれば、それほど難しいことではないように思えます。そこをあえて競い合い、憎しみ合うような構造を維持しているのも、緊張感がないと堕落してしまう人間が、あえて選ぶ道なのでしょうか。その問いはこの齢になっても解けません。個人的には堕落大好きなのですが(^^;
「ワイルド・スワン」は、世界中で1,000万部以上のベストセラーになりました。900頁を超える長編ですが、一気に読めてしまいます。次はハルビン出身で日本に帰化した女性、楊逸(ヤン・イー)が、天安門事件を題材に書いて芥川賞を受賞した「時が滲む朝」をポチりました。
]]>