すっかりご無沙汰しております。約2ヶ月ぶりの生存確認的更新です。
おかげさまでその後も、相変わらず元気でのんきな日常を過ごしております。
日曜日にはだいたいサイクリングに出かけてしまうのですが、雨確率が高い週末には、気になっていたSR400の要メンテナンス箇所をいくつかいじってヒマつぶしをしていました。93,000kmも走ると次から次へとネタが発生するので退屈することはありません。
いつものように、次男と2人「あーでもない、こーでもない」と助け合ったり揉めたりしながらの作業でした(^^;
緊急性の高い順に手をつけて行きます。まずはオーバーフローし始めたキャブレターの修理から。
買い置いてあった社外品のオーバーホールキットを組み込もうと思ったらジェット類がぜんぜん適合せず。型式確認して注文したのになんでやねん!
それでもキットのニードルバルブとOリングは使えましたし、部品取り用に譲りうけていた別のキャブからバルブシートを外して組み込み、どうにかオーバーフローは解消しました。
次の雨日曜日にはフロントブレーキのメンテでした。SRのディスクローターの厚さは新品で5mm。メーカーは4.5mmまで摩耗したら要交換としています。ところがうちのSRは4.1mmまで使い倒しました。ヤフオクでフレ無しの新品同様ローターを落札して保管してありましたので交換。このあとボルトも新品に交換しました。
取り外して右側に乗せてあるのが古いローター。写真ではちょっと分かりにくいですが、外周1〜2mmの部分に深い段差があります。
ブレーキフルードは2年ほど前に交換しましたが、キャリパー本体は購入時からノーメンテ。今までより9mmも厚いローターを噛ますわけですから、引きずりそうな予感はしていましたが案の定でした。
この際なのでスライドピン・ピストン・オイルシール・ダストシールも交換しました。フルードが変性した固形物がオイルシール溝にモリモリ詰まっており、これもピストンの動きを渋くしていたはず。ドライバーや曲げたゼムクリップで掻き出して、すっかりキレイになりました。
フルードはシリンジを使ってブリーダー経由で。エア抜きも完了して引き摺り解消。
そのまた次の雨予報の日曜日には、フロントフォークのオーバーホールでした。
スプリングに着いたフォークオイルはまっ黒け。
いちばん上からオイルシール、ワッシャー、スライドメタルの順。わが家のSRは3型と呼ばれる世代なのでスライドメタルの抜去は簡単。2型まではこれをプーラーで引き抜く作業がフォークメンテの最難関だったとか。
オイルシールに傷がつくとフォークオイルが漏れてしまうので、シール内面にオイルを塗布後ポリ袋で保護して通します。
スライドハンマーなんか持ってないので、ホームセンターでサイズの合う塩ビ管を買って来て圧入しました。
新しいフォークオイルはこんな色。
オイルを注いでしばらく放置してエア抜き。スプリングを挿入します。このあと油面を調節して車体に組みました。
トップキャップは17mmの六角。そんなサイズのレンチを買ってもほとんど使う機会がないので、ネットの知恵を拝借して外寸17mmの長ナットをメガネレンチで回して固定しました。
前サスもブレーキもカッチリ感が出て気持ち良い! ローターのボルトが新しくなっただけで印象が若返りました。
じつはフォークを車体にセットする際に下の写真に写っているゴムブーツを履かせ忘れました(^^;
まぁSRのブーツは飾りだし、次男と「ブーツ無しもわるくないよね」と意見が一致しましたので、しばらくはこのままで行きます。
SRの作業の合い間、次男は通勤用の2ストスクーター、スズキ「レッツ」のVベルト交換もやっつけました。
新緑が青空に映えて、自転車にもオートバイにも気持ち良い季節になりましたね。みなさんも気をつけて楽しみましょう!(^_-)
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しばらくブログが更新されないので、私が体調を崩していないかと心配して下さる方から連絡を頂きました。
おかげさまで身体も心も至ってって元気に過ごしております(^^;
いつも通り平日は元気に働いて日曜日には100km未満のサイクリング。音楽を聴いて本を読んで映画やドラマを観て、もうちょっと経つと野球も始まりますし、変わらず日々を楽しんでいます。
ただ、年齢的な衰えでしょうか、ここのところ自分の考えや感じたことを言葉のかたちに変換することが少ししんどくなって来ました。それでもすっかりやめてしまうのは寂しいので、ぼちぼちと不定期で更新して行こうと思います。
さて、日曜日には近所のシネコンで「BLUE JIANT」という映画を観てきました。
中学生の頃、友人に連れられて聴きに行ったジャズの生演奏に心打たれた仙台在住の主人公。高校生になってバスケ部に入部するも並行して独学でテナーサックスを練習し、卒業とともに上京します。誰とも違う自分の音と情熱。あと運と縁にも助けられて彼が世界的なプレーヤーになっていく物語です。コミックスではすでにヨーロッパやアメリカに舞台が移っていますが、映画は日本を飛び出すところまで。
原作の漫画「BLUE JIANT」はコミックスが2013年11月に発売され、シリーズ累計発行部数は840万部を超えているとのこと。絶滅危惧種であるジャズファンの数を考えれば、信じられない売り上げです。おそらく漫画「岳」で不動の人気を得た石塚真一のファンのおかげだと思われます。若い漫画・アニメファンがこの作品をきっかけにしてジャズに興味を持ってくれるのは、たいへん喜ばしいことです。
コミックス第1巻が発売されて間もない頃、発行元の小学館に勤務する自転車仲間が、ジャズ好きの私宛てに届けてくれたのが縁で読み始めてから10年。病気で亡くなってしまったチームメイトのムッシュもこの作品の大ファンでした。彼は新刊発売のたびにFBで告知してくれていましたっけ。
映画化されると聞いたとき、漫画に描かれた情熱的な演奏シーンをどう表現するのだろうかと、正直なところかなり不安でした。
しかしそれも杞憂でした。ブロウの表現もアツかったのですが、なにしろ録音が素晴らしくて、ブレスの音やテナーサックス独特のザラついた色気のあるトーンまで細やかに再現されており、コアなジャズファンも充分満足できる出来でした。ムッシュにも観せてあげたかったなあ。
(画像はファミ通.comから拝借)
ありがたやシニア料金(≧▽≦)
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「別に悩んでいるわけでもないし、どうしたいという積極的な思いもなくて、ただぼんやりとした不快感だけがあって、何かを改善したいというほどの強い思いもない。できるだけ不愉快な思いをしたくないし、危険な目にあいたくないとは思うけれど、そんなことが生きる意味になんてならない。きっと私は空っぽの人間なんだと思うな。」
前々回の更新で紹介させて頂いた上田岳弘の最新作「引力の欠落」で、主人公の女性がAlexa相手に独り言ちる場面の一節です。
主人公は数々の企業の上場にCFO(最高財務責任者)として関わったことで巨富を得て、経済的には充足しつつも深い孤独を抱えています。勝ち組になることを生きがいに来たものの、若くしてある意味人生を上がってしまった今、想像していたような幸福感は得られませんでした。
彼女は、仕事で関わりを持つことになった弁護士のマミヤから「人間からはみ出した方がいい」と言われ、奇妙なペントハウスの集まりに招待されます。そこには自らを秦の始皇帝や錬金術師だとする「自己認識がおかしな人たち」がくつろいでいました。彼らは自らをUEH(未確認生存人間)、9人の「クラスター担当者」なる特別な存在であると名乗ります。どうやら集まりに参加出来なくなってしまった「引力クラスター」の後釜としてスカウトされた主人公。
相変わらずシュールな設定です。
芥川賞受賞作の「ニムロッド」のあと、「私の恋人」、「引力の欠落」と彼の作品を3作続けて読みました。それらの作品に共通して漂うのは虚無感。宗教やイデオロギーなどの限界が見えてしまった現代、世界は脳が見せる幻影であることを思い知らされます。
人類はもう歴史を何周もしているように感じますし、いいかげん人間を生きるということがどういうことか理解し始めているように思います。
主人公のように個人レベルの生きがいでさえ、どこかで意味を失ってしまうのもよくあること。それでも、幻影だと分かっていても、何かしらの強い思い込みを持たないと人間を生きて行くことは出来ません。作者はそこにいわゆる”ブルース”を感じるようです。
上田岳弘という人。彼の作品を読んでいると、生きることへの執念がまるで感じられない人という印象を受けます。「人間は望まれて生まれてくることはあっても、望んで生まれてくることはない」などのフレーズは親が聞いたら悲しみそうです。死生観とか生きるということの解釈とかが自分と近い気がして、不謹慎な感覚で生きているのは自分だけじゃないじゃん、と慰められるんですよねー(^^;
アニメ調のちょっと変わった装丁でした。
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40年ほど前、私が中学生だった頃のこと、実家の田んぼ脇には農機具用の納屋がありました。
たまにそこを通りかかると、明治生まれの祖父がゴツい指で黙々とわらじを作っているのを見かけることがあり、いつか作り方を教わりたいなと思っていました。
私の実家は海の近く。磯で釣りをしたり貝を獲ったりする際に、海藻がついて滑りやすい岩の上を歩くにはわらじが最適なのです。また、葬儀の際には仏さんの棺の中に死出の旅路用にわらじをいくつも入れたり、座敷から棺を担ぎ出す縁者もわらじを履いて下りていたように記憶しています。
しかし、ほどなく祖父は脳卒中で身体が思うように動かせなくなり、私の願いがかなうことはありませんでした。
その後もテレビの時代劇などでわらじを見かけるたび、納屋で両足の親指に縄をかけてわらじを作っていた祖父の姿を思い出していました。そして最近のこと、十日町市にわらじ作りを教えてくれる教室があることを知り、さっそくエントリーしてみました。
次男も一緒に行きたいと言うので、運転手を兼ねて同行してもらうことに。
わらじ作り教室は13:30開始なので、それまでは魚沼あたりで観光。西福寺開山堂は江戸末期の彫工、石川雲蝶の作。彼の名を世に知らしめることになった寺社彫刻の数々は、たしかに圧巻でした。残念ながらお堂の内部は撮影禁止ですので木鼻の写真だけ撮って、天井彫刻の写真は魚沼市の観光協会から拝借しました。
六日町から十日町へ抜ける八箇峠。ここから塩沢石打方面へ、山の中腹を走る魚沼スカイラインは紅葉の名所とのこと。時間がゆるすだけドライブして来ました。紅葉のピークには1週間ほど早かったようですが、標高の高い山肌はもう見事に色づいていました。
スカイラインの展望台でコーヒーを一服。
お昼前には十日町に到着。十日町といえば食事はもちろんへぎそば。「直志庵 さがの」さんは評判通り美味しかったです。
そしていよいよお教室が始まりました。
ブレブレ写真。
次男の自撮り。
レンタカーの返却時間が気になって、本来の終了時間より少し早く失礼させて頂いたので、裏側から出ているモシャモシャは未処理。次男のわらじはまだ片方鼻緒がついていません。帰宅してからちゃんと仕上げます。
今回、しっかり作り方を教わりましたので、こんどは鼻緒も自分でなった縄を使い、仕上がりにこだわってもう一足作ってみようと思います。
やっと40年来の念願が叶いました。慣れない姿勢で作業に集中しましたので、終わったあとは抜け殻のよう。いやぁ、充実した時間でした。
わらじ作りの先生は地元で農家を営むH坂さん(82才)。
おだやかな声で、地元の風土のことやご自身の子ども時代のお話なども織り交ぜながら、制作の手順をきめ細かく教えてくださいました。
次男はすっかり彼の人柄のファンになってしまったようです。一緒に過ごすだけで人を幸せな気分にさせる人でした。あこがれます。
さすがは”行楽の秋”の日曜日、帰りの関越道はしっかり渋滞しており、けっきょくレンタカーの返却時間には間に合わず、翌朝返しに行きました(^^;
(今回の写真のほとんどは、次男から拝借しました)
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子供の頃は読書が苦手でした。もっと言うと算数の文章問題でさえ、最後まで集中して読むことができませんでした。
今で言うところの、ADHDの形質によるところが大きかったのではないかと思います。算数のテストでは、脳の処理能力に余力があっても情報の入力の途中で集中力が切れてしまって、あとは死んだ魚のような目で文字・数字の羅列を眺めて過ごしていました。
私の場合、成長するにつれて形質による支配がおだやかになってくれましたので、20代の頃には読書も楽しめるようになり、30才で入学した鍼や接骨の専門学校では、自分の脳ミソとは思えないほどの絶好調っぷりでしたっけ。
ところが60才を過ぎて、またまた集中力の衰えを感じる今日この頃。劣化が加速する脳をどうにかしないと次の世代に迷惑をかけてしまいますので、ちょっと読書なんかしてみました。
読んだのは2020年芥川賞受賞作の「首里の馬」高山羽根子と、2018年の芥川賞受賞作「ニムロッド」上田岳弘の2冊。どちらも読み応えのある作品でした。
「首里の馬」
沖縄に住む、社会への適応に自信がない若い女性が主人公。孤独を感じながらも、自分を受け容れてくれる数少ない人たちの存在が救いになり、おだやかな日々を過ごしていました。仕事は世界のあちこちに居るユーザーに、オンラインでクイズを出すというもの。宇宙ステーションに居る人、南極の海中の研究施設に滞在している人、紛争中の都市のシェルターに居る人。彼女は利用者たちも自分と同じように孤独であることで、彼らにシンパシーを感じていきます。そんなある日、自宅の庭に迷い馬?がうずくまっているのを見つけました。その馬との出会いをきっかけに彼女の中にかくれていた大胆さが弾けます。
設定はつっこみどころ満載なのですが、純文学は芸術ですから細かいことはどうでもよろし。南米マジックリアリズムに通じる非日常感と、すべての表現がすこし丸みを帯びているようなやわらかさ。”孤独をテーマにした大人の童話”というのが私の感想です。
「ニムロッド」
サーバーセキュリティ会社で働く主人公が、仮想通貨のマイニングを命じられます。どこか虚無的な気持ちでその業務に取り組んでおり、仕事にたいする熱量はそれほど高くありません。私生活では大企業のM&Aの交渉を任せられるようなビジネスウーマンとドライな関係を続け、鬱病を発症して会社を辞めた小説家志望の元同僚である”ニムロッド(荷室)”から送られてくる作品を読む日々。登場人物はこの3人だけです。
すべてのことが並列に情報化される現代社会。仮想通貨のように、人間の欲望が情報に重力を生み、その重力が価値になって行きます。元同僚のニムロッドの小説では、”人間も並列に並ぶ情報の一部。自らの価値を証明出来ないのであれば、いっそ自己認識を捨てて全体に溶け込んでしまえば全能感が得られる” という誘惑に負けて世界がディストピア化していく中、主人公はある選択をします。おそらくニムロッドも自身の小説の主人公と同じ選択をしたのか、連絡が途絶えてしまいます。
情報があふれる現代社会に生きる若い世代の内面に、すこしだけ触れられた気がしました。上田岳弘の作風が気に入ったので、図書館で別の作品も借りて来たところです。楽しみ!
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古くからの慣用句に言うとおり、お彼岸近くになるとちゃんと涼しくなるもんですね。
私は夏が大好きでした。50才くらいまでは、、
亜熱帯植物が自生する温暖な気候の室戸で生まれ育った私は、紺碧の空をくっきりと切り取る夏山の稜線を眺めるだけで、背筋が伸びて元気が出たものでした。
東京で過ごした夏も今年で45回め。東京の街としての熱は、何もかもがアナログでつながっていた昭和の頃のほうが熱かったように思うのですが、夏の暑さは年号が下るに連れきびしくなっているように感じます。
どこか誇らしい気持ちで ”暑ければ暑いほど夏が好き!” と言い放っていたのが遠い昔のよう。当時は熱帯夜でもエアコンなんか使わず朝まで熟睡出来たのに、今では寝苦しさに負けて寝入りばなにはエアコンを使ってしまいます。なんならあれほど憎んでいた冬の寒さに対して寛容な気持ちさえ芽生える始末(^^;
それでもやはり夏の終わりは寂しいんですよね。どんなに暑さが辛くても、けっきょく夏を嫌いにはなれません。
妙齢の患者さまたちの「まったくいつまでも暑いわねェ」というファンキーな時候のあいさつに、「寒くなるのはあっという間だから名残惜しんでおいたほうがいいですよ」なんて応えると、だいたい「冗談じゃないわよ。殺す気?」なんて八つ当たりされます。夏が名残惜しいうちは、まだまだ青二才なのかも知れませんね(^^;
毎年9月になると台風の進路は日本列島に近づいてくる傾向ですが、今週末も地味なやつが迫っているようです。気圧の変化に影響を受けてか、いつも以上に不調を感じている患者さまが多くなっています。10月になれば秋の安定した気候に入るはず、もうしばらくの間ご自愛くださいませ(^_-)
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ブログの更新間隔がいつもより空いてしまいました。
読み始めた本が文庫6巻2,157頁となかなかのボリュームで、自由時間のほとんどを読書に費やしていたのです。本の題名は「1Q84」。2009年に出版された村上春樹の小説です。数ある彼の長編の中で唯一読み逃していた作品。途中でやめられないほど面白くて毎日100頁以上読んでしまいました。やはり彼の作品は読み物としては期待を裏切りません。しかし、世界的な文学作品のように作品固有の精神世界へ誘導されるような没入感が得られるかと言うと、、彼は大きな賞には縁がありませんがそれはそれで妥当な評価だと思いますし、熱狂的なファンが世界中に存在することも納得。いろいろな国のファンの方たちと彼の作品について語り合ってみたいものです。
夕食時や食後の歯磨きタイムも貴重な自由時間。さすがに読書はできませんので、アマプラで映画も何本か観ました。
鑑賞履歴からアマプラがおすすめしてくる作品はイスラム系のものが多かったので、そこから4本ほど。
?風が吹くまま:1999年 フランス、イラン合作 アッバス・キアロスタミ監督
イラン、テヘランのテレビ局クルーが、葬儀の際の独特な風習を取材するためにクルド系の小さな村を訪れます。彼らは危篤状態の老婆が居るとの情報を得ており、数日間の予定で村に滞在しますが、数週間が過ぎても老婆の死は訪れず、ディレクターはいら立ちを募らせながらも、村の人々と少しづつ交流を深めて行きます。
クルドの村の美しい風景や村人たちの素朴な人柄。何とも味わい深く良い映画でした。
イランはアメリカとの関係は冷えたままですが、意外やEUとは対話や貿易が盛ん。この映画もフランスとの合同制作です。
?禁じられた歌声:2014年 フランス・モーリタニア合作 アブデラマン・シサコ監督
西アフリカ、マリ共和国の小さな町ティンブクトゥで牛7頭を飼って生計を立てていた仲の良い娘ひとりの3人家族。ある時からイスラム過激派が町を占拠し、住民たちは大好きだった音楽もタバコもサッカーも禁止。貧しくとも心豊かだった暮らしは、窮屈なものになっていきます。原理主義者たちは戒律を都合良く解釈して、住民の娘を強引に戦士の妻として奪っていったり、むちゃくちゃな裁判ですぐ処刑したり。ある事件をきっかけにして仲良し3人家族の日々も暗転してしまいます。
映画としての完成度が高いとは言えませんが、アフリカの各地で実際に起こっていることを知る機会になりました。ちょっとツラい、、
?娘よ:2014年 パキスタン・アメリカ・ノルウェー合作 アフィア・ナサニエル監督
実話をもとに制作された作品だそうです。パキスタンの人々の日常生活の様子を知りたくて観てみました。
パキスタンとインド、中国の国境にそびえ立つカラコルム山脈。その麓にはいまだ多くの部族がひしめき合っています。部族間のトラブルを解消するために、ある部族長は10歳のひとり娘を相手部族の老長老に嫁がせることを決めました。自らも15歳で同じ目に逢った部族長の妻は、結婚式当日に娘とふたりで村を逃げ出します。母娘はメンツをつぶされた両部族の追跡から逃げきれるのでしょうか。
「風が吹くまま」もそうでしたが、美しい風景や彼の地の伝統的な習俗を見るだけでも楽しめると思います。
?娘は戦場で生まれた:2019年 イギリス・シリア合作 ワアド・アルカティーブ エドワード・ワッツ監督
今回観た中でもっとも衝撃的だった作品です。以前映画館に観に行ったドキュメンタリー映画「ラッカは静かに虐殺されている」よりも強烈だったかも知れません。
シリアではアサド大統領による独裁政権が40年以上続いています。2011年には、チュニジアのジャスミン革命に触発されて政権に対する国民の不満が爆発。とは言え、はじめは民主化を求める平和的なデモ運動でした。しかし運動に対する弾圧は厳しく、ついに反体制派は自由シリア軍を結成して武装蜂起。政権側と反体制派、クルド人勢力、過激派組織イスラム国がグッチャグチャの内戦を展開しました。混乱のあとに影響力を持ちたいアメリカ、ロシア、トルコ、サウジなどもそれぞれの勢力を援助したものだから、ますます収拾がつかなくなり、内戦状態は現在も継続中です。
映画は、2011年当時大学生でデモの参加していた女性、ワアド・アルカティーブが、2016年の反体制派の拠点アレッポが陥落するまでを撮り続けたドキュメンタリー・フィルムです。映画のほとんどは、アルカティーブが抵抗運動中に結婚した医師のハムザが勤務していた病院で撮られています。病院の床は繰り返される爆撃の犠牲者たちの血で絶えず血に染まったまま。両腕がちぎれてしまった幼児の遺体を放心状態で見つめる兄弟の目。妊娠9ヶ月で爆撃に遭い、意識不明で運び込まれた妊婦は破片の除去と同時に帝王切開を受けますが胎児も心肺停止。医師はあきらめず、刺激を加え続けると、、
政権側は反体制側の心を折るために病院を狙って爆撃を加えるため、病院も転々と場所を変えて行きます。最後に生き残った医師はハムザだけ。最後の病院で彼は20日間で890件の手術をしたそうです。
医師とジャーナリストとして、途方もない数の死を見届け続けるふたりは娘を授かりました。娘は病院のスタッフたちの希望の象徴になって行きます。
当事者が一人称で撮った映像は、他国から戦地に入ったジャーナリストが撮った報道の映像とは、出来事の見え方がまったく違いました。
この映画は気の弱い方は観ない方がいいです。ただ、世界の情勢が油断できないフェーズに入ってしまった昨今、平穏な日常がある日突然、死と隣り合わせの日々に変わることがあるというのも現実。そのときに何が起こるのかを知っておく意味はあると思います。
ひさしぶりの更新でしたので長い文章になってしまいました。どうかお許しくださいませ(^^;
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いや、誰かにそんな質問をされたわけではありません。ある日何の気なしに観ていた、タレントさんたちがお酒を飲みながら雑談するバラエティ番組の中で、「好きな言葉は何ですか?」というテーマが設定されたのです。
ビール片手に観ていた私は、「”好きな言葉”とか”座右の銘”とかを語るヤツって、だいたいちょっとめんどくさいんヤツなんだよなー」などと独り言ちていましたが、よく考えたら自分にも好きな言葉がひとつだけありました。
「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」という句です。
これは比叡山山中で行われる天台宗の修行、「千日回峰行」を2回達成した酒井雄哉大阿闍梨が修行に入る前に、彼の師である箱崎文応師が授けてくれた句だそうです。
千日回峰行とは、7年間の修行うち1〜3年めは1年のうち100日連続で、4〜5年めは200日連続で深夜2時に出発して台風の日も雪の日も真言を唱えながら、山中の仏塔やお堂など260箇所で礼拝して約30kmの山道を歩き、その後断食・断水・断眠・断臥の4無行の堂入り。それが明けるとまた6年めは1日60kmを100日、7年めは200日。途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、降魔の剣(短剣)、三途の川の渡り賃である六文銭、埋葬料10万円を常時携行する。そんな過酷な修行です。
平安時代から行われていたというこの千日回峰行。過去には51人が達成していますが、2回達成した人は酒井大阿闍梨を含めて3人しかいないとのこと。
酒井大阿闍梨は、旧制中学卒業後、慶応義塾商業学校を経て熊本県の予科練に入隊。特攻隊基地の鹿屋飛行場で終戦を迎えました。戦後、事業の度重なる失敗や妻の自殺などを経て1965年に得度し比叡山へ。以前に彼の本を読んだりテレビの特集を観たりしましたが、本人の談によれば仏門に入るきっかけも修行を始めるきっかけも、とくに高邁な志によるものではなかったとのこと。社会に適応するのが難しく、身の回りのいろいろなものから逃げ出したくて叡山に居場所を求めたようです。
社会に適応することが困難な形質を持っていても、自分に向いた道と出会って楽しんでいるうちに、常人には成し遂げられないような偉業を達成する。すると社会は手のひらを返したようにその人格さえも好意的に評価するようになる。よくあることですね。
さて、この「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」 箱崎師はこの句に込めた意味を、こう説明してくれたそうです。
「人間というのは、どこで死んでもかまわないという気持にならなければならない。ましてや行なんてものは、そういう気持でないとできないんだ」「今いるところがもう自分の墓場なんだよ」
自分で決めた道を進むのなら、今いる場所でいつ死んでも後悔しないように、生きる覚悟が大切だと云う事のようです。
私はこの句を目にしたとき、本来の「何かを達成するためには、大切なものさえ捨てる覚悟が必要」という解釈ではなく、「だいたい執着などというものが足かせになる。日々自分なりのベストを尽くせば、あとはなるようになれッスわ」という勝手な解釈をして、すっかり気に入ってしまったのです。本来の意味を知ったあともそれを改める気はありません。アーティストが楽曲をリリースしたあと、自分が意図しない解釈で受けとめられて曲が勝手にひとり歩きしてしまうという話はよく聞きますが、そんな感じ(^^;
「好きな言葉を語るヤツはだいたいめんどくさいヤツ」。自分がめんどくさいヤツである自覚はちゃんとありますよん(≧▽≦)
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今月12日に記録的な大雨が降った埼玉県西部地域。毛呂山町では1時間あたりの雨量が120mmに達したそうです。年間降水量が全国でもトップクラスの高知県で育った私でも、100mmを超える雨はそう何度も経験していません。今回の雨、山沿い川沿いにお住まいの方たちはさぞ怖い思いをされたことでしょう。当日の報道でも、私が毎週のようにおじゃましているときがわ町や越生町あたりの土砂崩れや冠水の情報が伝えられていて気がもめました。浸水してしまったお家はたいへんだと思いますが、けがをされたり亡くなった方の知らせがなくて何よりでした。
それから約1週間後の18日(海の日)に自転車で、やはりあの日豪雨に見舞われた奥武蔵グリーンラインを走って来ました。
Twitterのフォロワーさんの中に、すでに豪雨後の現地を走って通行止め状況を知らせてくれた方があり、刈場坂峠までは通行に問題がないことは確認済み。しかし、路面は土砂の流れ出しや散乱する折れ枝が多く、下り区間ではかなり神経を使いました。
まずはいつものように、林道関の入線からグリーンラインの尾根道に取りつきます。
前日にも雨が降ったので、濃い森の気配が身体の隅々まで行きわたる感じ。うっかり自分も森の一部になってしまいそうでした。
写真は五常の滝の流れ込み部に至る区間。この道幅で15%前後の斜度ですから、対向車が来ると足を着かざるを得ません(^^;
雨に濡れて迫力が増した天文岩。
ところによっては、浸み出しが川のように流れていました。
この日は晴れたり曇ったり。グリーンラインの気温はだいたい20℃〜22℃でした。
上り区間で目の前に現れるとびっくりするやつ。クモの巣から下がった枯葉です。
なんや知らん花と青空。
この日も天目指峠を越えて名栗みちへ。道沿いを流れる久通川は、水量は多めですがそれほど濁っていませんでした。
下界は暑くて32℃。写真はバーベキュー場の薪割り場。河原のビールがうらやましい!
今日のウシさん。
またまた新型コロナの感染者が増えて日々心が休まりませんね。もうしばらくの間気をつけて過ごしましょうね。
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Spotifyを利用し始めた頃にオススメに出て来て、それ以来聴き続けているのが、SUNHOUSEのアルバム「Crazy On The Weekend」。
この2年くらい、我ながらよく飽きないなというくらい聴いています。サンハウスと言えばデルタブルーズのレジェンドを連想しますが、あちらはの綴りは「SON HOUSE」。こちらはそれほどブルーズ色が強いわけではないので、レジェンドを意識してつけたバンド名ではない気がしますが。
さてこのSUNHOUSEというバンド、リリースされているのはこのアルバム1枚だけ。当初ネット検索してみても日本語での情報はほとんど見あたりませんでした。今回ブログにアップするのでちょっとまじめに調べてみたところ、英語版のWikiにかろうじてバンドの情報が載っていました。
ソングライターのギャビン・クラークは、遊園地で働いていたときに出会った映画監督から依頼を受けて低予算映画のサウンドトラックに曲を提供することになり、急遽バンドを結成。映画で使用された曲を中心に1998年にリリースされたデビューアルバムが「Crazy On The Weekend」でした。メディアの評価は高かったものの、商業的にはうまく行かずバンドは1年で解散することに。ギャビン・クラークはその後も地道に音楽活動を続けていましたが、残念ながら成功には結びつきませんでした。そして2015年、アルコール依存症に由来する呼吸不全で亡くなってしまいます。
フォーク・ロックテイストの曲にギャビン・クラークのハスキーなボーカル。アメリカンど真ん中な曲が多いので、すっかりアメリカのバンドだと思い込んでいましたが、イングランドで結成されたと書いてあってびっくり。
Spotifyでの再生回数も、タイトルチューンの1曲めはかろうじて10万回を超えていますがほかの曲は数万回。こんなに素晴らしいアルバムがなぜ売れなかったんだろうと、ずっと不思議でしょうがありませんでした。今回、ネットで歌詞を見つけて訳してみたところ、あまりに暗すぎて「こりゃ売れんわ、、」と納得。喜怒哀楽などのいわゆる”情動”より深いところにある、自分自身の内面を観察する習慣のない人は、そこへ誘導されるような音楽を聴くのが恐ろしいのだと思います。
それほど英語が得意でない私は、まさかそんなネガティブな歌詞だとは知らずに2年間も愛聴していたのだから間抜けなハナシです。いや、暗い詞も嫌いではないのでそれはそれで良いんですけどね(^^;
Youtubeには全曲アップされているようです。2曲貼っておきますので、気になる方は他の曲も検索してみて下さいね。ほんとうはアルバムの曲順で聴くのがいちばんなのでSpotifyやApple Musicなどの配信で聴いてほしいところです。年齢を問わずハマる人も多いはず。何しろ一度聴いてみて下さい(^_-)
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若い頃は常にアンテナを張り巡らして、自分を刺激してくれるものを飢えるように探していたものですが、そんな衝動も年齢と共にだんだん薄れて来てしまいました。音楽にせよ小説にせよ、居心地が良い精神世界へ誘導してくれるものばかりを手に取ってしまいがちです。それでも、身体と同じで感覚の代謝も滞ってしまえば死んでいるのと同じだと、ときどきは未知のものに挑戦しています。
ジャズで言えば、新しい潮流のロバート・グラスパーとカマシ・ワシントンを聴いたのが3年前。たしかこのブログにもインプレを書いたはずです。それ以来新しいミュージシャンの音楽を聴いていなかったことにはたと気づき、Spotifyのリコメンドにしたがっていろいろ聴いているうちに、ついにお宝を見つけました! 気鋭のトランぺッター、アンブローズ・アキンムシーレです。
彼は1982年、カリフォルニア州オークランドでナイジェリア出身の父親とミシシッピ州出身の母親の間に生まれました。
ドンピシャのヒップホップ世代ですから、子供の頃から日常生活の中にヒップホップがあったのでしょう。インタビューではこう答えています。
「ヒップホップの後にジャズを聴いた時はそんなに大きな跳躍だとは思わなかった。両方ともポップミュージックよりもリズムに重点を置いているし、アートフォームを前に押し進めよう、何か新しいものを見つけようという考え方を信じているしね」
また、「僕は50年代のビ・バップ・プレイヤーの人生なんて生きていないから、あんな音は出せない。音楽一家に生まれたわけでもないし、テレビやラジオからヒップホップが流れる地元で育った。そこに良いも悪いもないし、そんなところを取り繕ってもボロが出るだけ。自分に起きたことの全部を受け入れて、真摯に自分の音を探す。アルバムに詰まっているのは僕そのものなんだ」とも。
彼は楽曲を自分で書いた短い物語や文章をベースに作っているそうです。「そういったやり方は本当にクールな作曲方法だと思ってる。僕はジャズやインプロヴァイズド・ミュージックの一般的な形式から逃れたかったんだ。」とのこと。
初めて彼の音源を聴いたとき、よく練って構築されている作品だなと感じましたが、一度言語化されたイメージを昇華させて作られているということを聞いて合点がいきました。構成もプレイもどちらかというとクールなアプローチなのですが、反復するシンプルなリズムに中に時おり見せるエモーショナルな一面は、血の中に宿っているものを感じさせます。私が好きなブッカー・リトルから影響を受けたと公言している通り、とくに初期の作品にそれが感じられるのも高ポイント(^^)
また、彼はブラック・ライヴズ・マターに対する関心が高く、オークランドで警官に射殺された黒人男性の名前を曲のタイトルにしたりしています。知的でクールな印象の彼ですが、社会的なメッセージを作品に込めて発信するところは、やはりヒップホップ世代なのだなと。
現在までにリリースされた彼のリーダーアルバムは6枚。すべてSpotifyにラインナップされています。まだ5〜10回くらいしか聴いていませんが、どのアルバムも聴き込むだけの価値があると感じる作品ばかり。アキンムシーレには実際かなりコーフンさせられています。時代を超えて評価される作品もたしかに素晴らしいのですが、やはり、今を生きるアーティストが今を感じて作った作品に触れることも必要なのだと再認識した次第でした。
こちらはアキンムシーレが、テナーサックス奏者のベン・ウェンデルのプロジェクトに参加した動画。こちらもわりと好きなので貼っておきます。
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いつの頃からかテレビにハードディスクが付いて、たくさんの番組を録りためておくことが出来るようになりました。録画一覧の中から、その日の気分に合わせて観る番組を選べるのはとてもありがたいです。
心身が疲れて帰った日には、何も考えずに笑って観られるバラエティやドラマを観ることが多いのですが、もう少し疲れたほうが良く眠れそうなときには少しおカタい番組にも挑戦します。
先日の夜は、ずいぶん前に放映されたNHKスペシャルの「見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅〜」を見ました。
昨年の4月に亡くなった立花隆。生物学、環境問題、医療、宇宙、臨死体験、政治、経済、哲学など、知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから、”知の巨人”とも呼ばれていました。本人は「勉強が仕事です」と笑っていたようです。
彼は1974年に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表して田中角栄首相の退陣のきっかけを作り、その名を世に知らしめました。私が読んだ彼の著書は学生時代に「日本共産党の研究」1冊だけ。隠された事実や見過ごされがちな矛盾にするどい切り口で迫っており、出版当初はその内容について共産党と大論争になったと記憶しています。ただ、私は彼の著作よりも人間としての彼自身に興味をそそられていましたので、今回の番組を見るのを楽しみにしていました。
番組を見て印象に残った彼の言葉をいくつか紹介したいと思います。
「竹やぶとは、竹はぜんぶ地下茎で繋がっている。竹がある山は、ひと山ぜんぶでひとつの植物。人間の知的な営みも地下で繋がっている。頭の中に取り込まれたことが地下茎に送られ、人間の知識の体系の一部になる。」
「あらゆる知識が細分化し断片化して、ありとあらゆる専門家が断片のことしか知らない。断片化した知を総合する方向に向かわなければならない。自分を教養人に育てられるかどうかは、自分自身の意思と能力と努力次第」
そして私自身も常々同じように考えていて、強く共感したのがこの言葉でした。
「人間の存在、あるいは人間が作り出す文化をどういう視点から捉えるかという問題。哲学的な根本的なところが、人類史の中で誰も回答していない。回答できない。学問の中でもじつはそこがいちばんおもしろい。」
私は、おそらくこの”文化”という単語の中には”歴史”も含まれるのだと考えます。テクノロジーの進歩や金儲けのために動員されている世界中の優秀な頭脳を、世界平和のために結集できれば今とは少しちがう未来に繋げられるのではないかと思うのです。
また、その言葉よりももっと強く共感したのが、晩年に家族に打ち明けた彼の望みです。
「墓も戒名もいらない。遺体はゴミとして捨てて欲しい」
私自身も息子たちには、「骨はトイレに流してほしい」と言ってあります。もちろん法律的に許されないことであることは理解していますが、いっぺんに流さなければ大丈夫かと(^^; まあ親にそう言われても、かんたんに希望に沿えるものではないとは思いますが、、
番組では、立花氏がなぜそういう希望を持つに至ったかは紹介されていませんでした。私の場合は、人間を生きることはもう充分楽しんだので、死後は人間というかたちから解放されてすっかり宇宙に同化したいと思うです。骨壺などに閉じ込められるのもまっぴらですし、家族をはじめ生前自分に関わってくれた人々の記憶からも消え去りたいくらいです。80代の患者さまにそんな話をすると、「もっと齢を取って本当にその日が近づいて来ると、またいろいろ執着が生まれて来たりするのよ」と笑われましたっけ。
さておき、知の巨人と呼ばれた人が辿り着いた考え方と、勉強が嫌いで直感だけでこの齢まで生きて来た落第生の私の考え方に、ちょっと似たところがあるのがおもしろいなと思った次第でした。
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ここのところ、週末の空き時間には次男とオートバイのメンテナンスをして過ごすことが多くなっています。
やはり生産されてから20年が経ち、87,000kmも走ると手を入れなければならない箇所が増えて来ます。
今回は後輪のスイングアームのピボットシャフト。
図の9がピボットシャフトです。ピボットシャフトは図の2の中空のブッシュの中を貫通するかたちで組まれています。
図の3はニードルベアリング。4はグリス漏れを防ぐシール。5はブッシュの両端のスラストベアリングです。
ピボットシャフトの両端数センチは中空構造で、先端部のグリスニップルから注入したグリスがシャフトの中空部分に開いた直径2mmほどの穴を通ってブッシュに沁みだし、同じようにブッシュに開いた穴から図の1のスイングアームの内面やその両端のニードルベアリングに行きわたるように設計されています。よく考えられた構造なのですが、じつは設計時の目論見ほどうまく機能しないことも多いようで、ブッシュとシャフトが固着してピボットシャフトが抜けなくなり、数時間がかりでシャフトをスイングアームごと切断しなければならなくなった例がネットにいくつもアップされていました。
うちのSRを中古で購入した販売店からはピボットシャフトのメンテの指示は受けておらず、ノーメンテで4年間乗ってしまいました。だってグリスニップルは取り外し式でツールボックスのドアに隠されてるんですもの、そら気がつきませんよねえ。
いちおう今回グリスアップを試みましたが、古いグリスが固まってどこかの穴を塞いでいるのかゴムのシールがグリスの圧に耐えられずに抜けてしまって、注入したほとんどのグリスが地面に落ちてしまう状態でした。
後輪を外し、スイングアームをフリーの状態にしたあとラスペネを吹いて、祈るような気持ちでプラハンでピボットシャフトを全力で何度も叩いてみましたが、びくともしませんでした。この時点で親子そろってかなり絶望的な気持ちに、、
ディスクグラインダーは持っていますが音量がものすごいので、わが家の住宅事情ではとても長時間は作業出来ません。次男と「現在どうにか乗れてる状態だから、このまま組み直して後輪にガタが出始めたら廃車にするか」などど切ない相談を10分くらいしたあと、ラスペネを追加してもう一度叩いてみたところ、なんと3mmくらい動きました。その後追いラスペネを食わせながら少しづつ叩いて行き、ついに完全に抜けました!!!
車体から外したスイングアーム。みごとにシールが外れています。
予想通りブッシュの穴はふさがっていました。
サイドスタンドを掛けたときに車体は左側に傾いだ状態。左側のスイングアーム内には水が溜まるのでしょう、ニードルベアリングは左側だけが錆びついて機能しなくなり、ブッシュのベアリングと接する箇所は熱で虫食っていました。
本来の使い方ではないのですが、めんどくさいので長めのボルトでプーラーを直接叩いてニードルベアリングを抜きます。
新しいベアリングを打ち込みました。あたり前だけど動きがスルッスルで気持ちいい〜。
シャフト本体の損傷は軽微でしたので磨いて再利用しましたが、ほかの部品はぜんぶ新調。シャフトの向こう側から注入したグリスがこちら側に押し出されましたので、いちおう全体にグリスが充填されたということで今回のメンテは終了です。
次男は作業中に、「もしオレに子どもが生まれたら、このSRに乗せたいわなぁ」なんて言っていましたが、さすがにそこまでこのSRの寿命を持たせるのははしんどい気がします、、てか、おま結婚する気あったの!?(@_@)
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このゴールデンウィーク、代々木公園ではカンボジアフェスティバルが開催されました。
休診の水曜日には予定がありませんでしたので、ひとりでふらっと出かけて来ました。
昨年、一昨年はコロナ禍で中止になってしまい、ひさしぶりの開催とのこと。カンボジア好きを自認している私ですが、例年の開催日はいつも予定が合わず、今回初めて来ることが出来ました。
伝統舞踊のアプサラダンス。楽器の編成や音階、踊りの動きの質も、タイやバリ島の伝統舞踊に通じる要素が多いように感じられます。東南アジアの音楽は、神話やアニミズムを基調とする土着の文化のうえに、仏教、ヒンドゥー教、またインド古代音楽の影響を受けて形成されました。その後には中国系、イスラム系、さらには西欧系のエッセンスや楽器も加わり、各民族独自の音楽や芸能を展開させていったとのこと。インドシナ半島に位置するカンボジアの音楽・舞踊ももちろんその体系の中に含まれます。
数人の女性で踊ることの多いアプサラダンスですが、この日の舞台はこの美しい女性ひとりでした。ほかの観客のみなさんにはすこし寂しいステージだったかもしれませんが、仕事柄身体の使い方が気になる私は、集中して動きを観察出来て勉強になりました。
こちらの写真は私が2018年にプノンペンを訪れた際に見学させて頂いた「アプサラ・アート・アソシエーション」の練習風景。「A.A.A」は、長く続いた内戦やポルポト政権下の弾圧により廃れかけていた伝統舞踊のアプサラダンスを復活させるために設立されたNGOです。主宰の先生のお話では、貧困に苦しむ少女たちの自立の手助けも設立の目的のひとつだったとうかがいました。
さて昼ご飯。ほんとうは”クイティウ”という米緬が食べたかったのですが、みなさん考えることは同じようで、クイティウを販売している屋台は長蛇の列。食べ物のために行列することが苦手な私は、おとなりのお店で”ノムバンチョック”という緬と、定番のアンコールビールを注文。ノムバンチョックもクイティウと同じく米粉で出来た緬なのですが、あまり歯ごたえがない素麺みたいな感じ。それでも風味はやはり現地のもの。さわやかなアンコールビールと相まって、つかの間エキゾチックな気分を味わえました。
この日はかなり暑くなりました。人間にとっては蒸さなくて気持ちの良い暑さだったのですが、犬にはしんどかったようで、フレンチブルくんは日陰にヘタりこんでいましたっけ。
こちらはミーアキャット。名前はよく聞きますが、この動物についての知識がなかったので検索してみました。
マングース科の食肉類。死因の20%ちかくが同種間殺しで哺乳類の中では最凶なのだとか。見かけによらないなあ(^^;
ちなみに人間の同種間殺しは約2%。ただ、人間同士の殺し合いは統計には表せない意味を含んでしまいますよね。
ひさしぶりに街に出て疲れてしまいました。若い頃は人混み全然平気だったのに、やはり齢ですねえ(^^;
帰宅後は自分ちの庭のような、自宅前の公園でひと息。やはりここがいちばん和みます。
今度の乾季にはカンボジアに旅行できるかしら、なんてしばし妄想したあとゆっくりお風呂しました。
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1978年にヤマハから発売されたSR400。残念ながらABSなどの安全装備の義務化や、より厳しくなった排ガス規制をクリア出来ず、昨年3月惜しまれながら生産終了しました。足かけ43年間も生産され続けたロングセラーでした。
わが家の2003年型SR400は86,000kmを超えてまだまだ元気。もうしばらくは活躍してくれそうです。
鼓動感のある乗り味や、ヤマハらしい知的で繊細なシルエット。そのすべてに愛着があるのですが、キャブ時代のSRにはひとつだけ宿命的に抱えている問題点がありました。クラッチが異常に重いのです。若い頃は50kgを超えていた私の握力も年齢と共にだんだん衰えて、渋滞にハマると指がつらくなります。もともとSR400のエンジンはXT500というオフロードバイクのエンジンをスケールダウンして搭載してあり、クラッチも500ccのパワーに対応したオーバースペックなもの。その重さは昔から有名でした。
2009年に気化器がフューエルインジェクション化されたのを機会に、クラッチスプリングもパワーに見合った適正な仕様に変更され、かなり軽くなったと耳にしてはいました。
雨でサイクリングに出かけられなかった日曜日、共同オーナーの次男と一緒に、買い置いておいた仕様変更後のクラッチスプリングに交換する作業にとりかかりました。
クラッチ側のクランクケースを開けると300ccくらいオイルが漏れて来ました。ヌルヌルの手でクラッチスプリングを抜きます。
スプリングを抜いた画。ガスケットはわりとうまく剥がれました。最上部と下部左のボルト穴付近にすこし破片が残っていますが、スクレーパーでかんたんにこそげ取れました。
右側が取り外した旧型のスプリングで、左側が新しく取り付ける対策品。長さがぜんぜん違います。
プッシュロッドも交換。左側が取り外したもので右が新品。古い方は先端部がすり減って平坦になっていました。
クラッチスプリングを換えたあと、試乗してみてびっくり。クラッチが原付かと思うほどの軽さになりました。
もっと早くやれば良かった(^^;
息子たちもすっかり大人、てかふたりともアラサー。生活のリズムも変わり、ゆっくり話す機会も減ってしまいました。ああだこうだ言いながらいっしょにバイクいじりをする時間は、きっと貴重なものなのだろうな、とありがたい気持ちで楽しんでいます。
とはいえ作業終了後はいつも、しばらく腰が伸びなくて往生するわけなのですが(>_<)
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