「密林の語り部」マリオ・バルガス・リョサ

  • 2019.11.13 Wednesday
  • 15:48

 

私がやっと「文学」が存在する意義に気づきはじめたのは、1980年代中頃のこと。 池澤夏樹の「夏の朝の成層圏」という小説を読んだとき、それまで読んで来た小説とはまったく違う感覚が呼び覚まされました。

それまでにもときどき、海外・国内問わず、いわゆる”純文学”と呼ばれる作品を読んだりしていましたが、生き方や人間同士の関わり合いについて書かれたものは、お説教臭く感じられて「あー、はいはい」てな読後感しか残りませんでした。 自分自身の未熟さのせいで、もうひとつ作品の本質に近づけていなかったのだと思います。

 

そんな私でしたが、多分にスピリチュアルな要素が含まれ、文明を告発するような表現が随所に見られる池澤夏樹の作品には強く惹かれました。

ヒッピームーブメントが下火になり、まだ”エコロジー”という言葉が浸透する前のこと。 それまで自分が夢中になっていた、テクノロジーの産物がもたらす麻薬性に気づき始めたタイミングに重なったのかも知れません。 スピリチュアルな伝承が日常のそこここに感じられるような田舎の風土に嫌気がさして、最先端を感じられるキラキラした東京に出てきたのに、当時は自分の変化に自分自身が戸惑ったものでした。 現在の仕事に転職したのもその変化がきっかけでした。

 

あの頃、仕事へ向かう電車の中で何冊も読んだ池澤夏樹の小説。 その後、彼が南米マジックリアリズム、とくにガブリエル=ガルシア・マルケスに大きな影響を受けたと知り本屋さんへ。 残念ながらそのお店にはガルシア・マルケスの「百年の孤独」は置いていなくて、やはり南米マジックリアリズムの名著と名高かったバルガス・リョサの「緑の家」の上巻を買って帰りました。 しかしその作品では私が求めていたものを感じられなくて下巻まで読み進むことはありませんでした。

 

 思えばリョサはアルベルト・フジモリとペルーの大統領選を闘った人。 アマゾンの原住民のことも、現代社会に存在する問題を読者に認識させる題材のひとつに過ぎなかったのでしょう。 同じ南米マジックリアリズムに括られていても、フアン・ルルフォやガルシア・マルケスの作品は作者自身がトランス状態にならないと書けそうにないぶっ飛んだ物語です。 彼ら自身が現実世界とスピリチュアルな世界をつなぐ「語り部」のようなもの。 私は文明人としての立ち位置で今ある世界に評価を下すような作家より、同じ世界で生きていながら私自身には見えていない世界が見えていて、そこに存在する真実に気づかせてくれる作家に強く惹かれてしまうのです。

 

「密林の語り部」。 リョサは自分の好みではないと知りつつ、そのタイトルと文庫版の装丁の魅力に抗えなくて、先日ついポチッてしまいました。 彼はこの作品を書くにあたり、長い時間をかけてアマゾンの原住民を取材したとのこと。 原住民のスピリチュアルな部分についての記述にはとてもリアリティがあります。 ときには人間として、ときにはアマゾンの野生動物として直感で生きる彼らに伝承をもたらすのが、広いアマゾンを放浪する「語り部」。 読んで私が感じたのは、何よりアマゾンの民はバランスを大切にする人たちだということ。”共存するための知恵”とも言えるでしょうか。それはたとえばアイヌの人々にも通じる賢さ。そこに触れられただけでも、この本を読んだ意味があった気がします。

 

正しい方向に向かっていると信じて突き進み、どんどん文明を進化させた我々の世界は果たしてほんとうに正しい方向に向かっているのでしょうか。 イデオロギーや宗教や民族主義やナショナリズムなどという思い込みで成り立ち、大きな力を持ちすぎてバランスの取りようがなくなろうとしている文明社会。そんな自分たちが、自分の命よりもバランスを優先する賢さを持った原住民たちに何を教えようと言うのでしょう。 私自身もその文明社会に身を置いているわけですが、せめてバランスの重要性は感じて生きて行きたいと思います。

 

 

 

 

※余談ですが、同じ南米マジックリアリズムの作家で、共にノーベル文学賞を受賞しているガルシア・マルケス(1982受賞)とリョサ(2010受賞)は大親友だったのですが、1976年にリョサはガルシア・マルケスにグーパンチを食らわせたとのこと。 青タンが痛々しいですね。 どうやらリョサ夫婦の問題にガルシア・マルケスが口をはさんだのが原因のようです。 てかチミたちバランスどないしてん(^^;

 

 

 

 

 

 

コメント
院長どのの「文明を進化させた我々の世界は、果たして本当に正しい方向に向かっているのでしょうか?」という問いかけには、様々な立場からの反応が有ると思います。冒頭で「スピリチュアルな要素」と提議されたー多分黒人霊歌のようなーー雰囲気の全く無い、僻地の開拓農民の家で育った私の場合、文学小説とは無縁の観点からの感想が湧いてきます。ズバリ言ってしまえば、地震や水害に遭ったときの復興能力が、文明の進歩によって極端に弱くなってしまった!ということです。被災以前への復帰に要する資金や労力が、被災した個々人の能力ではどうにもならないくらい大きくなってしまったということです。1945年の敗戦当時なら、ラジオも電話も全くない掘り立て小屋の生活に甘んじて、多くの人々が数年は辛抱しつつ頑張って生きて行きました。舌足らずですが、院長どのには解って戴けると思いますので、筆を擱きます。では。
  • 山野隆康
  • 2019/11/14 9:12 AM
山野さま
生きるための作業を分業して、自らのリスク管理さえ他人や社会システムに依存するようになり、生きることのリアリティがどんどん希薄になっているように思います。
ナマの一個人同士で触れ合う仕事をしていますと、都会に住んでいながらも、ときどき山野さんのような原始人仲間と出会えるのでやめられません(≧▽≦)
  • 松本
  • 2019/11/14 2:56 PM
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