念願だった ”わらじ” 作り

  • 2022.11.02 Wednesday
  • 16:24

 

40年ほど前、私が中学生だった頃のこと、実家の田んぼ脇には農機具用の納屋がありました。

たまにそこを通りかかると、明治生まれの祖父がゴツい指で黙々とわらじを作っているのを見かけることがあり、いつか作り方を教わりたいなと思っていました。

私の実家は海の近く。磯で釣りをしたり貝を獲ったりする際に、海藻がついて滑りやすい岩の上を歩くにはわらじが最適なのです。また、葬儀の際には仏さんの棺の中に死出の旅路用にわらじをいくつも入れたり、座敷から棺を担ぎ出す縁者もわらじを履いて下りていたように記憶しています。

しかし、ほどなく祖父は脳卒中で身体が思うように動かせなくなり、私の願いがかなうことはありませんでした。

 

その後もテレビの時代劇などでわらじを見かけるたび、納屋で両足の親指に縄をかけてわらじを作っていた祖父の姿を思い出していました。そして最近のこと、十日町市にわらじ作りを教えてくれる教室があることを知り、さっそくエントリーしてみました。

次男も一緒に行きたいと言うので、運転手を兼ねて同行してもらうことに。

 

 

 

わらじ作り教室は13:30開始なので、それまでは魚沼あたりで観光。西福寺開山堂は江戸末期の彫工、石川雲蝶の作。彼の名を世に知らしめることになった寺社彫刻の数々は、たしかに圧巻でした。残念ながらお堂の内部は撮影禁止ですので木鼻の写真だけ撮って、天井彫刻の写真は魚沼市の観光協会から拝借しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

六日町から十日町へ抜ける八箇峠。ここから塩沢石打方面へ、山の中腹を走る魚沼スカイラインは紅葉の名所とのこと。時間がゆるすだけドライブして来ました。紅葉のピークには1週間ほど早かったようですが、標高の高い山肌はもう見事に色づいていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

スカイラインの展望台でコーヒーを一服。

 

 

 

 

 

お昼前には十日町に到着。十日町といえば食事はもちろんへぎそば。「直志庵 さがの」さんは評判通り美味しかったです。

 

 

 

 

 

そしていよいよお教室が始まりました。

 

 

 

 

 

ブレブレ写真。

 

 

 

 

次男の自撮り。

 

 

 

 

レンタカーの返却時間が気になって、本来の終了時間より少し早く失礼させて頂いたので、裏側から出ているモシャモシャは未処理。次男のわらじはまだ片方鼻緒がついていません。帰宅してからちゃんと仕上げます。

今回、しっかり作り方を教わりましたので、こんどは鼻緒も自分でなった縄を使い、仕上がりにこだわってもう一足作ってみようと思います。

やっと40年来の念願が叶いました。慣れない姿勢で作業に集中しましたので、終わったあとは抜け殻のよう。いやぁ、充実した時間でした。

 

 

 

わらじ作りの先生は地元で農家を営むH坂さん(82才)。

おだやかな声で、地元の風土のことやご自身の子ども時代のお話なども織り交ぜながら、制作の手順をきめ細かく教えてくださいました。

次男はすっかり彼の人柄のファンになってしまったようです。一緒に過ごすだけで人を幸せな気分にさせる人でした。あこがれます。

 

 

 

 

さすがは”行楽の秋”の日曜日、帰りの関越道はしっかり渋滞しており、けっきょくレンタカーの返却時間には間に合わず、翌朝返しに行きました(^^;

(今回の写真のほとんどは、次男から拝借しました)

 

 

 

 

 

 

 

さよなら、夏

  • 2022.09.23 Friday
  • 15:26

 

古くからの慣用句に言うとおり、お彼岸近くになるとちゃんと涼しくなるもんですね。

私は夏が大好きでした。50才くらいまでは、、

亜熱帯植物が自生する温暖な気候の室戸で生まれ育った私は、紺碧の空をくっきりと切り取る夏山の稜線を眺めるだけで、背筋が伸びて元気が出たものでした。

 

東京で過ごした夏も今年で45回め。東京の街としての熱は、何もかもがアナログでつながっていた昭和の頃のほうが熱かったように思うのですが、夏の暑さは年号が下るに連れきびしくなっているように感じます。

 

どこか誇らしい気持ちで ”暑ければ暑いほど夏が好き!” と言い放っていたのが遠い昔のよう。当時は熱帯夜でもエアコンなんか使わず朝まで熟睡出来たのに、今では寝苦しさに負けて寝入りばなにはエアコンを使ってしまいます。なんならあれほど憎んでいた冬の寒さに対して寛容な気持ちさえ芽生える始末(^^; 

 

それでもやはり夏の終わりは寂しいんですよね。どんなに暑さが辛くても、けっきょく夏を嫌いにはなれません。

妙齢の患者さまたちの「まったくいつまでも暑いわねェ」というファンキーな時候のあいさつに、「寒くなるのはあっという間だから名残惜しんでおいたほうがいいですよ」なんて応えると、だいたい「冗談じゃないわよ。殺す気?」なんて八つ当たりされます。夏が名残惜しいうちは、まだまだ青二才なのかも知れませんね(^^;

 

毎年9月になると台風の進路は日本列島に近づいてくる傾向ですが、今週末も地味なやつが迫っているようです。気圧の変化に影響を受けてか、いつも以上に不調を感じている患者さまが多くなっています。10月になれば秋の安定した気候に入るはず、もうしばらくの間ご自愛くださいませ(^_-)

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと前のNスペ 立花隆

  • 2022.06.08 Wednesday
  • 11:43

 

いつの頃からかテレビにハードディスクが付いて、たくさんの番組を録りためておくことが出来るようになりました。録画一覧の中から、その日の気分に合わせて観る番組を選べるのはとてもありがたいです。

心身が疲れて帰った日には、何も考えずに笑って観られるバラエティやドラマを観ることが多いのですが、もう少し疲れたほうが良く眠れそうなときには少しおカタい番組にも挑戦します。

先日の夜は、ずいぶん前に放映されたNHKスペシャルの「見えた 何が 永遠が 〜立花隆 最後の旅〜」を見ました。

 

昨年の4月に亡くなった立花隆。生物学、環境問題、医療、宇宙、臨死体験、政治、経済、哲学など、知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから、”知の巨人”とも呼ばれていました。本人は「勉強が仕事です」と笑っていたようです。

 

彼は1974年に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表して田中角栄首相の退陣のきっかけを作り、その名を世に知らしめました。私が読んだ彼の著書は学生時代に「日本共産党の研究」1冊だけ。隠された事実や見過ごされがちな矛盾にするどい切り口で迫っており、出版当初はその内容について共産党と大論争になったと記憶しています。ただ、私は彼の著作よりも人間としての彼自身に興味をそそられていましたので、今回の番組を見るのを楽しみにしていました。

 

番組を見て印象に残った彼の言葉をいくつか紹介したいと思います。

 

「竹やぶとは、竹はぜんぶ地下茎で繋がっている。竹がある山は、ひと山ぜんぶでひとつの植物。人間の知的な営みも地下で繋がっている。頭の中に取り込まれたことが地下茎に送られ、人間の知識の体系の一部になる。」

 

「あらゆる知識が細分化し断片化して、ありとあらゆる専門家が断片のことしか知らない。断片化した知を総合する方向に向かわなければならない。自分を教養人に育てられるかどうかは、自分自身の意思と能力と努力次第」

 

そして私自身も常々同じように考えていて、強く共感したのがこの言葉でした。

「人間の存在、あるいは人間が作り出す文化をどういう視点から捉えるかという問題。哲学的な根本的なところが、人類史の中で誰も回答していない。回答できない。学問の中でもじつはそこがいちばんおもしろい。」

私は、おそらくこの”文化”という単語の中には”歴史”も含まれるのだと考えます。テクノロジーの進歩や金儲けのために動員されている世界中の優秀な頭脳を、世界平和のために結集できれば今とは少しちがう未来に繋げられるのではないかと思うのです。

 

また、その言葉よりももっと強く共感したのが、晩年に家族に打ち明けた彼の望みです。

「墓も戒名もいらない。遺体はゴミとして捨てて欲しい」

私自身も息子たちには、「骨はトイレに流してほしい」と言ってあります。もちろん法律的に許されないことであることは理解していますが、いっぺんに流さなければ大丈夫かと(^^; まあ親にそう言われても、かんたんに希望に沿えるものではないとは思いますが、、

 

番組では、立花氏がなぜそういう希望を持つに至ったかは紹介されていませんでした。私の場合は、人間を生きることはもう充分楽しんだので、死後は人間というかたちから解放されてすっかり宇宙に同化したいと思うです。骨壺などに閉じ込められるのもまっぴらですし、家族をはじめ生前自分に関わってくれた人々の記憶からも消え去りたいくらいです。80代の患者さまにそんな話をすると、「もっと齢を取って本当にその日が近づいて来ると、またいろいろ執着が生まれて来たりするのよ」と笑われましたっけ。
 

さておき、知の巨人と呼ばれた人が辿り着いた考え方と、勉強が嫌いで直感だけでこの齢まで生きて来た落第生の私の考え方に、ちょっと似たところがあるのがおもしろいなと思った次第でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

SRのスイングアームがたいへんなことに、、

  • 2022.05.24 Tuesday
  • 15:26

 

ここのところ、週末の空き時間には次男とオートバイのメンテナンスをして過ごすことが多くなっています。

やはり生産されてから20年が経ち、87,000kmも走ると手を入れなければならない箇所が増えて来ます。

今回は後輪のスイングアームのピボットシャフト。

 

 

 

 

図の9がピボットシャフトです。ピボットシャフトは図の2の中空のブッシュの中を貫通するかたちで組まれています。

図の3はニードルベアリング。4はグリス漏れを防ぐシール。5はブッシュの両端のスラストベアリングです。

ピボットシャフトの両端数センチは中空構造で、先端部のグリスニップルから注入したグリスがシャフトの中空部分に開いた直径2mmほどの穴を通ってブッシュに沁みだし、同じようにブッシュに開いた穴から図の1のスイングアームの内面やその両端のニードルベアリングに行きわたるように設計されています。よく考えられた構造なのですが、じつは設計時の目論見ほどうまく機能しないことも多いようで、ブッシュとシャフトが固着してピボットシャフトが抜けなくなり、数時間がかりでシャフトをスイングアームごと切断しなければならなくなった例がネットにいくつもアップされていました。

 

 

 

うちのSRを中古で購入した販売店からはピボットシャフトのメンテの指示は受けておらず、ノーメンテで4年間乗ってしまいました。だってグリスニップルは取り外し式でツールボックスのドアに隠されてるんですもの、そら気がつきませんよねえ。

いちおう今回グリスアップを試みましたが、古いグリスが固まってどこかの穴を塞いでいるのかゴムのシールがグリスの圧に耐えられずに抜けてしまって、注入したほとんどのグリスが地面に落ちてしまう状態でした。

 

 

後輪を外し、スイングアームをフリーの状態にしたあとラスペネを吹いて、祈るような気持ちでプラハンでピボットシャフトを全力で何度も叩いてみましたが、びくともしませんでした。この時点で親子そろってかなり絶望的な気持ちに、、

ディスクグラインダーは持っていますが音量がものすごいので、わが家の住宅事情ではとても長時間は作業出来ません。次男と「現在どうにか乗れてる状態だから、このまま組み直して後輪にガタが出始めたら廃車にするか」などど切ない相談を10分くらいしたあと、ラスペネを追加してもう一度叩いてみたところ、なんと3mmくらい動きました。その後追いラスペネを食わせながら少しづつ叩いて行き、ついに完全に抜けました!!!

 

 

 

 

車体から外したスイングアーム。みごとにシールが外れています。

 

 

 

 

予想通りブッシュの穴はふさがっていました。

 

 

 

 

サイドスタンドを掛けたときに車体は左側に傾いだ状態。左側のスイングアーム内には水が溜まるのでしょう、ニードルベアリングは左側だけが錆びついて機能しなくなり、ブッシュのベアリングと接する箇所は熱で虫食っていました。

 

 

 

 

 

本来の使い方ではないのですが、めんどくさいので長めのボルトでプーラーを直接叩いてニードルベアリングを抜きます。

 

 

 

 

 

新しいベアリングを打ち込みました。あたり前だけど動きがスルッスルで気持ちいい〜。

 

 

 

 

シャフト本体の損傷は軽微でしたので磨いて再利用しましたが、ほかの部品はぜんぶ新調。シャフトの向こう側から注入したグリスがこちら側に押し出されましたので、いちおう全体にグリスが充填されたということで今回のメンテは終了です。

 

次男は作業中に、「もしオレに子どもが生まれたら、このSRに乗せたいわなぁ」なんて言っていましたが、さすがにそこまでこのSRの寿命を持たせるのははしんどい気がします、、てか、おま結婚する気あったの!?(@_@)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンボジアフェスティバルいてきました

  • 2022.05.10 Tuesday
  • 11:40

 

このゴールデンウィーク、代々木公園ではカンボジアフェスティバルが開催されました。

休診の水曜日には予定がありませんでしたので、ひとりでふらっと出かけて来ました。

 

昨年、一昨年はコロナ禍で中止になってしまい、ひさしぶりの開催とのこと。カンボジア好きを自認している私ですが、例年の開催日はいつも予定が合わず、今回初めて来ることが出来ました。

 

 

 

 

 

伝統舞踊のアプサラダンス。楽器の編成や音階、踊りの動きの質も、タイやバリ島の伝統舞踊に通じる要素が多いように感じられます。東南アジアの音楽は、神話やアニミズムを基調とする土着の文化のうえに、仏教、ヒンドゥー教、またインド古代音楽の影響を受けて形成されました。その後には中国系、イスラム系、さらには西欧系のエッセンスや楽器も加わり、各民族独自の音楽や芸能を展開させていったとのこと。インドシナ半島に位置するカンボジアの音楽・舞踊ももちろんその体系の中に含まれます。

数人の女性で踊ることの多いアプサラダンスですが、この日の舞台はこの美しい女性ひとりでした。ほかの観客のみなさんにはすこし寂しいステージだったかもしれませんが、仕事柄身体の使い方が気になる私は、集中して動きを観察出来て勉強になりました。

 

 

 

 

こちらの写真は私が2018年にプノンペンを訪れた際に見学させて頂いた「アプサラ・アート・アソシエーション」の練習風景。「A.A.A」は、長く続いた内戦やポルポト政権下の弾圧により廃れかけていた伝統舞踊のアプサラダンスを復活させるために設立されたNGOです。主宰の先生のお話では、貧困に苦しむ少女たちの自立の手助けも設立の目的のひとつだったとうかがいました。

 

 

 

 

 

さて昼ご飯。ほんとうは”クイティウ”という米緬が食べたかったのですが、みなさん考えることは同じようで、クイティウを販売している屋台は長蛇の列。食べ物のために行列することが苦手な私は、おとなりのお店で”ノムバンチョック”という緬と、定番のアンコールビールを注文。ノムバンチョックもクイティウと同じく米粉で出来た緬なのですが、あまり歯ごたえがない素麺みたいな感じ。それでも風味はやはり現地のもの。さわやかなアンコールビールと相まって、つかの間エキゾチックな気分を味わえました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日はかなり暑くなりました。人間にとっては蒸さなくて気持ちの良い暑さだったのですが、犬にはしんどかったようで、フレンチブルくんは日陰にヘタりこんでいましたっけ。

 

 

 

 

 

こちらはミーアキャット。名前はよく聞きますが、この動物についての知識がなかったので検索してみました。

マングース科の食肉類。死因の20%ちかくが同種間殺しで哺乳類の中では最凶なのだとか。見かけによらないなあ(^^;

ちなみに人間の同種間殺しは約2%。ただ、人間同士の殺し合いは統計には表せない意味を含んでしまいますよね。

 

 

 

 

ひさしぶりに街に出て疲れてしまいました。若い頃は人混み全然平気だったのに、やはり齢ですねえ(^^; 

帰宅後は自分ちの庭のような、自宅前の公園でひと息。やはりここがいちばん和みます。

今度の乾季にはカンボジアに旅行できるかしら、なんてしばし妄想したあとゆっくりお風呂しました。

 

 

 

 

 

 

SRのクラッチスプリング交換

  • 2022.04.26 Tuesday
  • 16:35

 

1978年にヤマハから発売されたSR400。残念ながらABSなどの安全装備の義務化や、より厳しくなった排ガス規制をクリア出来ず、昨年3月惜しまれながら生産終了しました。足かけ43年間も生産され続けたロングセラーでした。

 

わが家の2003年型SR400は86,000kmを超えてまだまだ元気。もうしばらくは活躍してくれそうです。

鼓動感のある乗り味や、ヤマハらしい知的で繊細なシルエット。そのすべてに愛着があるのですが、キャブ時代のSRにはひとつだけ宿命的に抱えている問題点がありました。クラッチが異常に重いのです。若い頃は50kgを超えていた私の握力も年齢と共にだんだん衰えて、渋滞にハマると指がつらくなります。もともとSR400のエンジンはXT500というオフロードバイクのエンジンをスケールダウンして搭載してあり、クラッチも500ccのパワーに対応したオーバースペックなもの。その重さは昔から有名でした。

2009年に気化器がフューエルインジェクション化されたのを機会に、クラッチスプリングもパワーに見合った適正な仕様に変更され、かなり軽くなったと耳にしてはいました。

 

雨でサイクリングに出かけられなかった日曜日、共同オーナーの次男と一緒に、買い置いておいた仕様変更後のクラッチスプリングに交換する作業にとりかかりました。

 

 

 

 

 

クラッチ側のクランクケースを開けると300ccくらいオイルが漏れて来ました。ヌルヌルの手でクラッチスプリングを抜きます。

 

 

 

 

スプリングを抜いた画。ガスケットはわりとうまく剥がれました。最上部と下部左のボルト穴付近にすこし破片が残っていますが、スクレーパーでかんたんにこそげ取れました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右側が取り外した旧型のスプリングで、左側が新しく取り付ける対策品。長さがぜんぜん違います。

 

 

 

 

プッシュロッドも交換。左側が取り外したもので右が新品。古い方は先端部がすり減って平坦になっていました。

 

クラッチスプリングを換えたあと、試乗してみてびっくり。クラッチが原付かと思うほどの軽さになりました。

もっと早くやれば良かった(^^;

 

息子たちもすっかり大人、てかふたりともアラサー。生活のリズムも変わり、ゆっくり話す機会も減ってしまいました。ああだこうだ言いながらいっしょにバイクいじりをする時間は、きっと貴重なものなのだろうな、とありがたい気持ちで楽しんでいます。

とはいえ作業終了後はいつも、しばらく腰が伸びなくて往生するわけなのですが(>_<)

 

 

 

 

 

 

ウクライナ、心配ですね

  • 2022.02.24 Thursday
  • 16:02

 

昨年末から緊張が高まっていたウクライナ危機。ロシアは一昨日、親ロシア派の住民が多いドネツク・ルガンスクの独立を承認。そしてついに今日、首都キエフやハリコフのウクライナ軍施設へのミサイル攻撃を始めてしまったとのこと。とても心配です。

 

テレビの報道番組におけるウクライナ危機の解説は米欧政府側寄りのものばかりですが、ロシア国民に対するインタビューでは、今回の危機の責任がロシアにあると考えている人の割合はわずか4%なのだとか。今回の危機は損得ではなく、おもに安全保障上の理由で始まったもの。2014年あたりからの経過を考えるとそれぞれの側にそれぞれの言い分があり、どちらが正しいというものでもなさそう。いずれにせよ、昔から強大な勢力の狭間で何度も辛い思いをして来たウクライナの人々のことを思うと、たくさんの血が流れずに収束することを祈るのみです。

 

「ニュースを見るには歴史の勉強から」ということで、現在のウクライナ人の歴史観に強い影響を及ぼしたであろう二つの出来事についてもう少し深く勉強しようと、1本の映画を見て1冊の本を読みました。

映画は「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」。本は岩波新書の「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(大木毅)。です。

 

映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は英国・ウクライナ・ポーランドの合作。若きイギリス人記者ガレス・ジョーンズの伝記映画です。彼は、世界恐慌の中でソ連だけが好景気であることに疑問を抱き、ウクライナに潜入。スターリンによって人為的に引き起こされた”ホロドモール”と呼ばれる飢饉(400万人から1,450万人が死亡)を取材し、その事実を発表。多くの新聞に掲載されました。本編の中では、親を失った幼い兄弟たちが人肉食をするシーンも、、映画はジョーンズによるホロドモールの告発シーンで終わりますが、その後彼は日本占領下のモンゴルを取材中に誘拐され、29才の若さで殺されてしまいます。彼の死にはソビエトNKVDの関与が疑われています。

 

 

 

 

「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」は2019年7月に刊行された本。翌年の2月には発行部数が12万部を超えたていたそうです。

歴史やミリタリー好きのコア層以外の人たちだけでこれほどのヒットになるとは思えません。久しく軍事に無関心だった日本の一般層が、クリミア併合以降のロシアや、軍事大国化した中国の現在に危機感を持って読んだのでしょう。

独ソ戦では、開戦半年で数百万人のソ連軍兵士が捕虜になります。戦況によるものより、スターリニズムに対する拒否意識から、自ら進んで敵に投降する者の方が多かったようです。とくにホロドモールを経験したウクライナでは、ドイツ軍をスターリン体制からの解放者として歓迎したのだとか。その後の彼らにはナチスによる苛烈な待遇が待っていたわけですが、、

 

 

 

勢いでほかにも独ソ戦に関わった国の映画を数本観ました。ロシア映画の「T-34 レジェンド オブ ウォー」、「AK47 最強の銃 誕生の秘密」。それとフィンランド映画の「アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場」。これは1939年のソ連侵攻、いわゆる”冬戦争”で自国のカレリア地方を失ったフィンランドが、国の全人口400万人のうち50万人の軍を組織して1941年に領土奪還をめざした”継続戦争”での末端の兵士たちを描いた作品です。いちどは当該地域の奪還に成功したものの、ソ連軍の反攻に遭い結果的には現在も割譲されたままになっています。

 

 

戦争や紛争は、おそらく人間が背負った宿命なのでしょう。いつも世界中のどこかで起こっており、途絶えることがありません。

日本は最後に経験した戦争が終わって76年経ちました。当時を経験した人たちもだんだん少なくなって、戦争のリアリティは薄らぐ一方。それはもちろん良いことなのですが、いつかまた自分たちにも重要な判断を迫られる時が来ないとも限りません。もちろんそんな日が来ないことを祈るばかりですが、、

 

 

 

 

 

ムッシュの形見

  • 2022.02.17 Thursday
  • 11:42

 

3年前、43才の若さで病気で亡くなってしまった自転車のチームメイトのムッシュ。元気な頃はマダムとふたり、持ち前の明るさで積極的にチームを盛り上げてくれていました。そんな彼も闘病生活が長くなると自転車に乗ることがキツくなり、晩年にはマダムと一緒にオートバイに乗って時間を共有していました。

お酒も飲まず着道楽だった彼は、自転車ウェアだけでなくオートバイのウェアも気に入った物しか身に着けなかったようです。

 

先日、マダムから「ムッシュのライディングウェアを着てみてもらえませんか?」との申し出があり、治療がてら院に持ってきてもらったら、その数アウター4点、パンツ2点、ブーツ2点。そのほとんどが新品同様でした。かなり症状が進んでからも、ふたたび思う存分走れる日を夢見てクシタニの直営店に何度も足を運んだムッシュ。その時間が心のお薬になっていたようです。

 

持参してもらった中で、私にサイズが合ったヘビーウィンター用のアウターと革パンを1点ずつ格安で引き取らせて頂き、残りはヤフオクに。マダムは出品未経験とのことでしたので私が代行しました。クシタニのウェアは高品質・高価格・小ロット生産なので、中古で出品しても最低でも半額以上で取引されています。ほんとうはムッシュの息子くんが着れればいちばん良かったのですが、身長が高すぎてつんつるてんになっちゃうんだとか(^^;

私と次男は、ブーツとグラブとヘルメット以外はオートバイもウェアも共用。ふたりでムッシュの形見を大切に着させてもらいます。

 

 

立体的な作りなのでそれほどゴワついて見えませんが、ダウンのインナーが付いており、それを外せば春・秋もイケます。

クシタニは皮革が有名ですがテキスタイルのウェアも細部まで作り込まれていて、とても着心地が良いのです。

 

 

 

 

 

脊椎パッドのシルエットが見えてますが、肘にもパッドあり。

 

 

 

 

 

スウェード地のパンツ。クシタニの皮革はいつの時代も絶品。履き心地は布と変わらないくらいしなやか。もちろんニーパッドが入ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が40年前に買ったクシタニの皮ツナギ。ニンジャ400に乗っているムキムキ系の長男はムリですが、次男は身長・体重が私とまったく同じなので、彼に譲りました。

 

 

 

 

 

6年前、次男と半分ずつ出し合って中古で買ったキャブ車のSR400。私のようなじいさんが乗るにはちょっと元気が良すぎる音量のマフラーですが、音質は気に入ってます。

購入時の走行距離は3万kmでした。気が向けば下道でどこまでも走ってしまう次男のせいで、購入3年目にはオドメーターは75,000kmを表示。その後彼は社会人になってペースが落ち、現在は85,000km。まだあと数年は乗れそうです。

 

自転車で奥武蔵の峠を走っているとき、ムッシュと一緒に走ったコースを通ると当時のことを思い出します。病院にお見舞いに行ったときには、回復したらオートバイでもツーリングに行く約束をしましたっけ。暖かくなったら彼が着ていたウェアで山方面走ってみるかな。

 

 

 

 

 

 

 

恒例、秋のモンテラック

  • 2021.10.26 Tuesday
  • 15:49

 

ブログサービスのメンテナンス時に独自ドメインが使えなくなり、再設定を試みましたがなかなかうまく行かなくて、数週間拙ブログへのアクセスが出来なくなっておりました。気にかけて日々更新をチェックしてくださっていた方々には、大変ご迷惑をおかけしましたm(__)m

 

さて、緊急事態宣言が明けましたね。しかしまた何かの加減で感染者が増えてしまわないとも限らないので、十分に対策をした上で今のうちにすこし羽根を伸ばしておくのも精神衛生上必要なことだと思います。

 

この週末、私は自転車チームの集まりに参加するべく、山中湖にある我らが本拠地ペンション・モンテラックへ泊りに行って来ました。

2年前、チームメイトのムッシュが42才の若さでこの世を去りました。今年は彼の命日がちょうどこの土曜日でしたので、彼を偲ぶ会がモンテラックで行われたのです。

仲間たちは現地まで自走で行ったり、朝モンテに車を置いて富士山一周のコースをサイクリングしたりと、いつものように夜までは自由に過ごします。私は土曜日午前中は診療ですので、半ドン終えてから次男のオートバイを借りて向かいました。

 

 

自走の仲間たちが到着する前にお風呂を済ませておこうと、いつもより30分ほど早く出発したので、藤野P.Aでのコーヒー休憩もまだ背景が明るいです。

 

 

 

 

ところが東富士五胡道路が緊急工事だとかで通行止め。河口湖から山中湖まで渋滞している一般道を走ることになってしまい、ご覧のような時間になってしまいました。道路脇の温度計では6℃と表示されていましたが、南東方向になびく雲と湖面のさざ波を見て頂ければ分かるように北西の冷たい風が吹いており、ハンドルを持つ手は震えっぱなしでした。

 

 

 

 

陽気で人懐っこい人だったムッシュを偲ぶ会でしたから、もちろんみんなで楽しく過ごしました。

マダムが手にしている指輪。なんとこのジュエリーはムッシュの遺骨から作られているのだそう。その話を聞いてじんと来ました。そして毎日力仕事を頑張っている彼女の指にもじんと来ました。

 

 

 

 

ペンション・モンテラック・オーナー、はんくまさんからサプライズのケーキ。ハナシにはよく聞くものの食べたことがなかった ”しゃいん・ますかっと” やらが内包されており、たいへん美味でした。写真撮ってたらみんながスマホで明るくしてくれたので、ホワイトバランスがちゃんとしてるでしょ?(^^)

 

 

 

 

 

翌朝は朝食前に、仲間のキッシーとモンテラック近くの別荘地を散策。この別荘地は尾根まで続いています。石割山へ続く尾根を縦走するトレッキングロードに突き当たったところが終点。標高1,000mくらいのモンテから1,255mの終点まで写真を撮りながらのんびりおしゃべり散歩を楽しみました。

 

 

 

 

私が上の写真を撮っているとき、道の反対側の森では鹿も散歩していたようで、キッシーがすかさずスマホで撮っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼちぼち終点というところからの富士山。朝になっても風は北西で、雲海は平野(写真左側の地名です)の方に吹き寄せられていました。

湖面には毛嵐も見られましたので、最低気温は0℃以下に下がったんでしょうね。

 

 

 

 

トレッキングコースは写真の平尾山(1,318m)を越えて、その先の石割山(1,413m)が最高地点になります。

朝食後には、つかぽんがひとりで石割山に登ると言ってましたっけ。石割神社の割れた巨岩をすり抜けると願いが叶うとのことですが、その願いが何なのかは訊き忘れました(≧▽≦)

 

 

 

 

 

クヌギ?コナラ? 広葉樹の落ち葉は多いのですが、上の平尾山の様子から見ても紅葉のピークは来週末あたりになりそうです。

 

 

 

 

散歩のあと、みんなでモンテ名物のふわふわオムレツを堪能してお開きでした。はんくまさん、お世話になりました。

今日もいい天気!

 

 

 

 

三国峠。風はまだ北西で寒ぶッ!

 

 

 

 

 

芦ノ湖スカイラインは単車天国。帰宅後次男に「いい齢してタイヤのトレッド端っこまで使うなよ」と𠮟られました。

 

 

 

 

何がしたかったかと言うと、富士山と駿河湾を同じ画に収めたかったのです。左端にギリギリ駿河湾も写ってはいるのですが、手前の水たまりの方がしっかり写り込んでしまいました(^^;

 

 

セ・リーグの優勝争いも佳境。この日の阪神戦はデーゲームでしたので、テレビ観戦するべく西湘バイパス→圏央道→東名高速とつないで、試合開始の14時ちょうどに帰宅。ムッシュの供養も出来たし、楽しかったし、充実の週末でした!

 

 

 

 

 

 

夏休みの宿題

  • 2021.08.17 Tuesday
  • 11:45

 

お盆には3連休させていただきました。3日あれば1日くらいは翌日の仕事のことを気にせずに自転車に乗れる日が作れるな、という胸算用でしたが、あいにくの前線停滞で3日とも雨でした(^^; しかし、九州や中国地方でたいへんな思いをされているみなさんの事を思えば、贅沢なことは言えませんね。

 

毎年終戦の日の頃には、NHKで戦争にまつわる番組が放映されます。今年はコロナ禍に疲れた視聴者の心に配慮してか、いつもより番組数が少なかったような気がしました。私はNスペの原爆初動調査と太平洋戦争開戦を誘導した蔣介石の回、あと九大医学部の捕虜生体解剖事件のドラマを見ました。

終戦からたった15年しか経たない年に生まれ、戦争体験世代に育てられた私ですが、大人たちは戦争当時を思い出したくないからか、子どもたちの心を傷つけたくないからか、あまり多くを語ってはくれませんでした。なので若い世代と同じで身体や心に戦争の恐怖は記憶されていません。番組で初めて知るショッキングな事実や映像で、自分の心が傷ついていくのを感じます。しかし、その痛みはまた転んで大きなケガをしないよう、教訓を得るために必要なもの。戦争にまつわる番組を見ることは私にとっては夏休みの宿題なのです。

 

雨の夏休みをより有意義に過ごそうと、今年は本を1冊読むことも宿題に追加。音楽家のお話にしようとは思っていましたが、終戦特番が少なかった分、登場人物にクロアチア出身の人が出てくるという、平野啓一郎の「マチネの終わりに」を選びました。

哲学的なインパクトはそれほどでもありませんでしたが、映画化にピッタリのドラマチックなストーリーで「ほいでどうなんの?ほいでほいで?」って感じ。あっという間に読み終わってしまいました。ここのところ重厚な作品ばかり読んでいたので、たまには”読み物”的な作品もいいなと。こんな言い方、作者には失礼ですけど(^^;

 

読書も予定より早く片付いてしまったので、こんどはアマプラでクロアチアの映画も1本観ました。タイトルは「灼熱」。

本編は3つの時代のお話で構成されています。旧ユーゴスラヴィアのクロアチアとセルビアの紛争が始まった1991年。紛争が終結したばかりの2001年。ふたたび平和が訪れたものの、それぞれが心に残った傷に苦しむ2011年。3つとも別のクロアチア人青年とセルビアの娘の恋の話を中心にストーリーが展開して行きます。異民族ではあるもののそれまで同じ地区に住む仲の良い隣人だった者同士、あるいは恋人同士だった者たちの、愛情と憎しみが混在する整理のつかない心が描かれています。バルカン半島の歴史についてはある程度勉強したつもりでしたが、当時や現在を直接体験した人たちが製作し演じた映画からは、文字情報や静止画像では得られないリアリティが感じられました。とくに女優さんの目に表れる複雑な心の動きには胸が苦しくなりました。

 

雨とコロナ禍でどこにも出かけられない夏休みでしたが、自分としては存分に宿題に取り組めた有意義な3日間でした。休み明けは身体も心もスッキリ。また頑張ります!

 

休みが明けてそんなことを書いていたら、アフガニスタンではまたタリバンが首都カブールを制圧したというニュースが入って来ました。タリバンは’90年代に国土のほとんどを掌握したものの、ほとんどの国から国家としての承認を得られなかった上に、人権を顧みない強圧的な統治で国際的な非難を受けました。今回はその教訓を生かして、ある程度人権に配慮した統治に路線変更するという声明を出しているとのこと。ぜひそうあって欲しいものです。

 

 

 

 

 

 

 

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM