あけましておめでとうございます(^^)

  • 2018.01.03 Wednesday
  • 17:39

 

みなさま、よいお正月を過ごされましたか?(^^)   東京は、ちょっとお散歩にでも出かけたくなるようなおだやかな陽気の三が日でした。三日の今日はちょっと風がちべたいけど。

 

私的なハナシですが、前回の更新でネタにしたとおり昨年末には予定していたカンボジア旅行がとんでしまい、いやはや大爆笑な年の暮れでした(T_T)

家で悶々と自分のポンコツさを反省するのもしんどいし、患者さまたちに笑っていただいて気分転換しようと、旅行予定の期間も結局休まず診療していました。 その作戦が奏功してか、ことのほか気持ちの立ち直りが早かったので、この1月下旬に再度彼の地への旅行を段取りしてしまいました。 笑われるかもしれませんが、懲りない自分をすこし頼もしく感じました。 患者さまには、またご迷惑をおかけすることになりますが、どうかおゆるしくださいませ(^^;

 

 

さて新年を迎えて、、いやじつは私は生まれてこの方、年が変わるからといって特段前年をふり返ったり新年にむけて何かを決意したりしたことがありません。 何かを決意して自分を縛るのが窮屈でしょうがないのです。 間違って何かを決意したところで、たぶん3日くらいでその決意を忘れてしまうような人間なんです。

 

若い頃はそんな自分を心底ダメな人間だと思っていましたが、還暦まであと2年を切ったこの齢までどうにか楽しく生きて来れたことを考えると、ひょっとしたら 「頑張らない人は幸せになれない」 は都市伝説だったのではないか思っています。

 

私が子どもの頃の日本では、何かを成し遂げるようなりっぱな人は言動も優等生的で、オリンピック選手などは 「日本国民の代表として」 とか 「期待してくれる方、応援してくれる方たちのために」 なんてのばかりでしたが、最近では 「楽しんで来ます」 が定番ですよね。 いや、今でも 「子どもたちに勇気を与えられるように」 なんてのもあるか。⇦こっちは好きじゃないなー。だいたい何さまじゃ!<`ヘ´>

きっと昔の人だってほんとは、ただ頑張ることが”好き”だっただけなんじゃないのかなあ。

 

あえて自分に縛りをかけて頑張る人はきっとエライし、そんな人がたくさん居てくれないと世の中うまく回らないので、ぜひぜひ皆さんには精出して頑張っていただきたいと思いますが、年頭にあたり私はあえて宣言します。「今年も好きなようにやらせていただきます!」(≧▽≦)

 

 

 

 

 

 

カンボジアサイクリング未遂

  • 2017.12.22 Friday
  • 16:07

 

やらかしてしまいました。

 

じつは、乾季になったらカンボジアへサイクリングに行こうと8月に飛行機を予約。 プランはプノンペン経由でシェムリアップに降り立ち、観光客だらけの遺跡見物はほどほどにして孤児院や小学校を見学。 あと伝統工芸の工房「アーティザン・アンコール」も。

それからスープドラゴンかレッドピアノで ”生”胡椒と海鮮の炒め物「チャーモッチァ・ムオーイマレッ」をいただいて、そのあとはバックパッカーたちがたむろってるタケオゲストハウス泊。 

翌日から自転車旅をスタート。途中、竹筒で炊いた豆おこわやタランチュラのから揚げなどをいただきながら、コンポンクディ、コンポントム、スクン、プノンペンと泊まり、プノンペンでは家人が以前勤めていたカンボジアの子どもたちのためのNPO法人の元現地スタッフで、サイクリストでもあるPinさんに、自転車で街を案内してもらうのを楽しみにしていました。

 

20日の深夜出発の予定なので、必要だったのは21日の0時台の予約。 ところが私は20日の0:30を予約してあったらしく、どこを探しても羽田に私の飛行機は見つかりませんでした(>_<)

受け取っておいた海外Wifiルーターと両替したばかりのドル紙幣を持ったまま、自動チェックイン機にゴメンナサイされてハッと事態に気づき、そのまま1分くらい固まっていましたが、とつぜんどうしようもなく笑けてきてしまいました(^^;

車で送ってくれたり荷物を運んでくれたりと、いろいろ活躍してくれた次男のほうが私以上に凹んでしまったようで申し訳ないくらい。 我ながら気持ちの切りかえの早さにはちょっと驚きました。 

 

 

カンボジアは、1970年代にポル・ポト派が支配した5年間で800万人足らずの人口のうち120〜230万人(発表者によって異なる)が亡くなっていますが、そのうちの相当数が虐殺によるものでした。 当時中学生だった私は、父親が新聞を広げたときこちらを向いた国際面からやっとベトナム戦争の記事が少なくなったなと思った矢先、それと入れ替わるように取り上げられはじめたカンボジア内戦の記事をどう読み取ればよいのか、当時はまったく分からないでいました。

そこで何が行われていたのか、本当のことを知ったのは1985年に公開された「キリングフィールド」という映画を見たときでした。

 

23年間の長きにわたったカンボジアの内戦は、1990年に開催された「カンボジア和平東京会議」をもってようやく終結しました。

 

私が生まれたのは太平洋戦争の終戦から15年が経った年。すなわち日本の国民の多くが戦争を体験として知っている時代でした。 私たちの世代は 「何があっても戦争はダメだわ」 という確信を持った人たちに育てられたのです。 

 

もちろん虐殺の現場がそのまま保存されているトゥールスレンや、刑場となったキリングフィールドには行ってみるつもりでしたが、私がカンボジアを旅行したいと思った最大の理由は、1000年前の風化した歴史の見物ではなく、内戦の傷跡を見ることでもなく、厳しい時代を生きた大人たちや、彼らが育てた屈託のない子どもたちとふれあって、私自身が生まれ育った時代の空気感をもう一度肌で感じてみたかったからです。

 

まぁ、ちょっと意識高そうなことを言っても、大ヘマやらかしたあとじゃぜんぜんカッコつかないんスけどね(≧▽≦)

今回は未遂に終わったカンボジアサイクリング、そのうちもっかい企てようと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

バイクロア7。見学のはずが、、

  • 2017.12.05 Tuesday
  • 11:21

 

日曜日にはさいたま市の秋ヶ瀬公園で、シクロクロスのイベント 「バイクロア7」 が行われました。 第3回目からは、自分自身も出場したりあるいは応援に行ったりと、毎年足を運ぶのをたのしみにしている大会です。

 

最近ではゼーゼー言いながら走るのがすっかりしんどくなってしまって、今年はヒルクライムレースも一度も走っていません。今回のバイクロアも、自転車仲間たちを応援しようと荒川サイクリングロードのお散歩ライドのついでに立ち寄ってみたのでした。

 

いつもお世話になっている ”サイクルショップあしびな” の仲間たちの基地を見つけてごあいさつ。 どうやら店長はリレー形式のカテゴリーに4チームもエントリーしてあるとのこと。 応援に来た初心者の女性(お店のお客さん)が目の前でいきなり身ぐるみはがされてジャージとゼッケンを渡されるのを目撃。 自分も 「あぁ、もう逃れる術すべはないんだな」 と覚悟を決めました(^_^;)   もちろん走っているみんなを見ているとちょっとウズウズする気持ちもありましたので、1周だけならとネックウォーマーや冬物インナー2枚重ねもそのままに、借り物のMTBでGO!(*^-^*) 

おかげさまで楽しく走ってリレーゾーンに到着したら、店長から 「もう1周!」 との指示。そして毎周回交代してもらえずそのままゴールまで4周走ることに((+_+))   老体にはキビしかったけど、久しぶりに森の中を思いきり走って気持ちよかったぁ。 割り込ませてくれた仲間たちに感謝です!

 

 

 

 

 

 

左はじが鬼店長です(@_@)   ほんとはオニ優しい人柄ですヨ(^_-)

 

 

 

 

モンテラックのチームメイトのケイちゃんは、シクロクロスでは”&バイシクル”さんでエントリー。 男前すぎるからちょっとピンボケくらいでちょうどいいかな(≧▽≦)

 

 

 

こちらももう10年来の友人、C2ライダーのおっくん。 彼も本来とは別のチームリレーに駆り出されたらしくジャージが上下バラバラ(^^)

 

 

 

この日、出来たら会いたいと思ってたのが彼女。 北山くんのお嬢さんです。 写真載っけてもいいって言ってくれたのでお言葉に甘えて。 ほんとうに生まれてきてくれて、産んでもらってよかったね♡

 

 

 

 

野あざみの花。見えるかしら。

 

 

 

荒川サイクリングロードもずいぶん空が高くなって、すっかり冬の空気でした。

 

 

 

 

帰りみち、ちょうど笹目通りをわたるときのこと。全身に電撃が走りました。 どうやら左耳に羽虫が入ったらしいのです。こんなときは耳の中に日光を当てると虫が出ていくと聞いていたのでお陽さまを探しますが、笹目通りからしばらくは山影を走ります。気持ち好いのか悪いのかアヘアヘしながら約10分。やっと日なたに出ました。 あわてて左耳たぶを引っ張って太陽の光軸を確かめながらひたすら虫が出て行くのを待つ私。 いや迂闊でした、道路の反対側でおばあちゃんに手を引かれた3才くらいの女の子がポケーッとこちらを見つめていたのです。 へんな自転車に跨ったテレパシー系のモジモジ君、コワかったやろなあ(^^;

 

 

 

 

 

 

夜と霧

  • 2017.11.23 Thursday
  • 17:42

 

両親の離婚後は父親と離れて暮らしていたボクサーの村田諒太。 ある試合の前に心が不安定になり、涙声で父親に電話したそうです。 そして父親は 「この本を読んでみなさい」 とひと言。 送られて来たのはヴィクトール・E・フランクルの 「夜と霧」 でした。 そしてこの本を読んだ村田は 「人生に意味を問うてはならない。人生からの問いかけにどう答えるかが大切なのだ」 という一節に救われたのだとか。


フランクルはユダヤ人の精神科医・心理学者です。 1942年8月から1945年4月までナチスの強制収容所に収容され、そのときの体験記をまとめたのがこの本。 名著としてタイトルは聞いたことがありましたが、なにしろ読まないうちから想像される内容の重さに押しつぶされてしまって、なかなか手に取る勇気が持てませんでした。 先日村田父子を特集したNHKスペシャルで上記のエピソードを聞いて、いよいよ読むしかないかと図書館で借りて来ました。

 

ナチスの非道さや被収容者の悲惨さを書いた本はほかにもありますが、フランクル自身が、苦悩に満ちた極限状態の収容所生活の中で確信するに至ったひとつの真理が書かれたこの本からは、私も強い衝撃を受けました。 アメリカで 「私の人生に最も影響を与えた本」 ベスト10に入ったり、読売新聞の 「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」 で翻訳ドキュメント部門の3位に選ばれたりしたのもうなづけます。

 

私ごときがあれこれ批評するのもおこがましい内容なので、印象に残った文章をそのまま引用しちゃいます。

 

ドストエフスキー 「私が恐れるのはただひとつ、私が私の苦悩に値しない人間になることだ」 の引用から始まる一文。

※おおかたの被収容者を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるのか、という問いだった。 生きしのげないのならこの苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。 しかし、私の心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。 すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。 もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。 抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから※

 

いやぁ、激しいですね。(*_*; 

フランクルは戦後、生きがいを見つけられずに悩む人たちに 「人生はどんな状況でも意味はある」 「生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への案内役だ」 と説いたそうです。

 

もうひとつ。村田の心に響いたのがこのくだりです。

※「我々は人生から何を期待できるか」 ではなく 「人生が我々に何を期待しているか」。「私が人生の意味を問う」 のではなく 「私自身が人生から問われたもの」 として体験される。

生きることは日々、時々刻々問いかけてくる。 その問いは漠然としたものではなくとことん具体的である。 私たちは考え込んだり言辞を弄するのではなく、行動によって正しい答えを出し続けなければならない。 その正しい答えが人間を苦しめるのなら、人はその苦しみと向き合い、その苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない※(←途中ちょっと端折りました。あと旧訳と新訳ごっちゃです)

 

ここで言う 「人生」 という言葉の中にはなんとなく 「神」 の存在が見え隠れしている気がします。 しかしこの ”具体的な” 状況の中に身を置いたフランクルは、宗教とは距離を置いたひとりの心理学者としての確信からこのような結論に至ったようです。

 

 

アイヌでは、大切なことを伝えるときに囲炉裏を囲みながら一晩かけて長い長い神話を聞かせるのだとか。 伝えたいことを直接的に言葉にするよりも、その話を聞いたときの言語化できない心の動きにこそ、本質的な理解が含まれているということだと思います。 村田のお父さんが息子にこの本を贈ったのも、きっとアイヌの長老と同じような意図があったのではないでしょうか。 そんな父親になりたいけど、なかなかねぇ(^^;

 

写真は在りし日のヴィクトール・E・フランクル。映画.comさんから拝借しました。

 

 

 

 

 

 

 

晩秋すぎた奥秩父

  • 2017.11.14 Tuesday
  • 15:35

 

日曜日には4週間ぶりに自転車で出かけて来ました。 ルートはひさしぶりの奥秩父です。 新緑の頃に訪れた際に、紅葉も必ず見に来ようと心に決めていました。

 

秩父駅をスタートしてすぐのコンビニ。 駐車場のお地蔵様を守るケヤキの葉がほとんど落ちているのを見て、もうこの時点でいやな予感がムクムクと、、(^^;

 

 

 

道路をくぐって水圧鉄管が落ちこんで行く先は大滝発電所。 最大出力は4000kwとのこと。 実家近くにある奈半利川の長山発電所(最大出力37000kw)を見慣れている私にはミニチュアのセットのように見えます。

 

 

 

秩父往還(国道140号)は、二瀬ダムで出来た秩父湖のあたりで上ルートと下ルートに分かれます。 栃本集落を通りたくて旧道の上ルートを選択。 集落のお宅の納屋には薪が積まれていましたが、これはカクジツに見る人の目を意識した積み方ですよね。アートしてます(^_-)

 

 

 

のどかな風情が感じられる栃本の集落。平成22年の国勢調査では秩父市大滝字栃本には36世帯、60人の方が暮らしているそうです。

 

 

 

 

里ではまだ、空気の色まで秋色に変えてしまいそうなくらい見事な紅葉が見られました。

 

 

 

 

ところが少しづつ標高を上げて行くにつれ、すっかり落葉してしまった木が目立つようになります。 これから始まる厳しい冬に向けて彼(彼女?)は何を思うのでしょう。

 

 

 

 

今日の目的地はここでした。雁坂トンネル手前の黄色い雁坂橋と赤い豆焼橋。 他の人のブログで、その佇まいが紅葉と調和したこのふたつの橋の写真を見てぜひ訪れてみたいと頑張って来たのに、もうすでに山の木々はほとんど葉を残しておらず、チームメイトのイノッチの頭みたいな坊主刈りになっていました(T_T)

雁坂橋

 

 

 

豆焼橋

 

 

 

秩父市内でも朝は3℃まで気温が下がったこの日、標高が1000m近い山梨県との県境からの下りは、山影に入ると身体のふるえがハンドルに伝わって車体も一緒にプルプル揺れるくらいでした。 こんなところまで来てイノッチの頭しか見れなかった落胆が、よりいっそう寒さを厳しいものにしていたのかも知れません(^^; 

来年こそはドンピシャのタイミングで再訪するぞと固く決意した次第でございます(^^)

 

 

 

 

 

 

 

SRでモンテラック

  • 2017.11.07 Tuesday
  • 11:45

 

日曜日はチーム恒例の 「ペンション・モンテラック」 へのお泊りサイクリングでした。

私は土曜の仕事を終えたあと、高速バスで輪行して復路は道志みちをみんなとサイクリングする予定だったのですが、14才になる愛犬が急に具合がわるくなってしまい、私が獣医さんに連れて行くことに。

診察が終わったのは17時。 バスで向かうと宴会に乗り遅れてしまうので、納車間もない次男のSR(オートバイ)を借りて行くことにしました。

 

北西の強い風に凍えながら中央高速を走り、いよいよふるえが止まらなくなった藤野PAで、房総の友人宅から富士吉田の自宅へ帰るというライダーと "連れcoffee"。 夜のPAにはオートバイは2台だけでした。 オートバイに乗ることが生活の一部だった20代の頃にはこんなシーンがよくあったっけなあ。

 

 

1時間ほど遅参しましたが、気心の知れたメンバーなのであっという間に場のノリに追いつきます。 ディナーを1名分作り直してくれたオーナーのはんくまさんに感謝です!<m(__)m>

 

 

この日は先着メンバーで本館のベッドが埋まってしまったので、数人のメンバーとコテージでzzz

通路を歩きながら見上げた月を、酔っぱで撮れるかチャレンジしてみました(^^)

 

 

 

「朝メシだよ〜!」と起こされ、コテージ組のタカトリと一緒に本館ダイニングへ。 写真は 「パリ・ブレスト・パリ」(1200kmを90時間で走るイベント) を2回完走した彼のケツ(≧▽≦)

 

 

 

 

湖畔で記念写真を撮ったあと、みんなは道志みち組と箱根組に分かれて自転車で家路に。 ちょっとさみしいけど私はここから単独行動です。

(この写真ははんくまさんの投稿から拝借)

 

 

 

はんくまさんが教えてくれた御殿場のSR専門のカスタムショップ 「Stinky」 のウィンドウを覗いていたら、その横を 「ツール・ド・沖縄200km」 を来週に控えたイノッチがビュ〜ン!って駆け抜けて行きました。籠坂峠越えもあるのにオートバイに追いつくって、どんだけ(^^;

美術品のようなカスタムSRを、おもちゃ屋のプラモデルを眺める小学生のように貼りついて見ていたら、「コーヒーでもいかがですか?」 とオーナーさん。よろこんでお呼ばれしました。

年齢も近いので少年時代からのオートバイ談義に花が咲き、果ては音楽・文学の話まで。 気がついたら30分以上経っており、そろそろお仕事に障りが出そうなので慌てて失礼しました。

 

 

隅々にまで手の入った宝石のようなSRたち。 

 

 

 

その後は30年ぶりくらいに箱根スカイラインへ。 紅葉シーズンのわりには交通量が少なかったので、レッドゾーン付近を維持してスポーツライドっぽいことをしてみました。 もちろん年寄りの冷や水にならないようにほどほどにね(^_-) 

 

 

駿河湾までくっきり。左に見える伊豆半島の岬は大瀬崎あたりでしょうか。

 

 

 

 

 

 

月曜日に子宮と卵巣、あと乳腺の腫瘍を摘出する手術を受け、麻酔から覚めたミント。 幸い経過は良好とのこと。 おそらく家族の中でいちばん賢い彼女は、術後に家人が面会に行っても動揺を見せなかったとか。 見習うところが多いです(^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

台風

  • 2017.10.30 Monday
  • 17:06

 

ここのところ週末は毎度毎度の雨降りで、ぜんぜん自転車に乗れていません。 この日曜日も次男のSRをいじったり、テレビで映画を観たりして過ごしました。

 

2週続きの台風も狙いすましたように週末でしたね。 先の台風21号は中心気圧が925hpで東海・関東に迫って来ましたので、上陸前には久しぶりに家の周りをいろいろチェックしました。 この台風は停滞していた秋雨前線をさんざん刺激してたくさん雨を降らせ、増水などで亡くなられた方もありましたね。 ただ、東京に来るころには勢力が衰えていて瞬間最大風速も30m/sくらい。 月曜の朝には台風一過、何事もなかったように出勤できました。

 

東京では台風の被害がまれだとはいえ、いちおう油断せず備えはします。 それは高校時代まで暮らした室戸での背筋が強ばるような恐怖の記憶があるからです。

 

ご存知のように、室戸地方は台風が上陸する頻度が高いので「台風銀座」と呼ばれています。 とりわけ凶悪だったのは、私の父が2才だった1934年の室戸台風。 あと私が1才だった1961年の第2室戸台風です。 室戸台風では室戸岬漁港の堤防が高潮で決壊。堤防近くにあった祖母の実家では祖母の家族が数人流されて帰らなかったと聞かされました。 その後も大きな台風が何度も上陸し、友人のお母さんが乗っていた車が土砂崩れに巻き込まれて亡くなったりしました。

 

下の写真の室戸岬灯台のすぐ近くには気象庁の気象観測所があります。 前身の室戸岬測候所が設置されたのは1920年。 室戸台風(上陸時の最低気圧911.6hpaは当時世界最低)の上陸時には風速計が壊れてしまい、最大風速を計測できなかったそうです。 第2室戸台風のときにも風速計は84.5m/sで振り切れてしまい、またしても計測不能だったのだとか、、

 

私の生まれた家は江戸時代の後期に建てられた、それはそれは古〜い家でしたので、60m/sクラスの台風が接近して来ると家族7人で別棟の風呂場に籠ってラジオに耳を傾けていましたっけ。 ときおり吹きつけるブロウの音や振動は、恐怖で鳥肌が立つほど暴力的で、自然が本気出したときの力を思い知りました。

 

台風の目の中に入ると一刻うそのように風がおさまります。 大人たちは家の様子を見に行ったりするので、子どもの私も非日常の外の世界が見たくて見たくてしょうがありません。「歩いて3分の海はどれほど荒れ狂っているのか、川は、大木は!」 

ただ、好奇心が強すぎる私のキャラを親はすっかりお見通しで、風呂場から出ようものならどこからともなく罵声が飛んで来ました(^^;

 

 

話は変わりますが台風な日曜の夜、前日録画しておいたNHKスペシャル「村田諒太 親子でつかんだ世界王座」 を見ました。 

以前からインタビューや練習への取り組み方を見て哲学的な人だなあと感じていましたが、どうやら追い詰められたときにお父さんから贈られた、ユダヤ人の心理学者ヴィクトール・E・フランクルの 「夜と霧」 の一節に救われたのがきっかけで、今や心理学や哲学の本が手放せないのだとか。その一節には私もハッとさせられました。

 

人生に意味を問うてはいけない

人生からの問いかけに

どう答えるかが大切なのだ

 

「人生という修行を楽しめ」ってことでしょうかね。しらんけど(^^;

 

 

室戸岬灯台。画像は「風景倉庫」さんから拝借しました

 

 

 

 

 

 

 

 

SRが来た

  • 2017.10.24 Tuesday
  • 11:47

 

「通学用にバイト代で原付を買う」 と言う次男にカブを勧めて一緒にカスタムしたのが1年半前。 それまではバイクのバの字も話題にしたことがなかったのに、このカブに乗り始めてからというもの、1年で1万キロも走るほどのカブ好きになってしまいました。「ちょっと出かけてくる」 なんて言って1日300kmとか。 どうやらひとりでのんびり走るのが好きなようです。 私の自転車の乗り方に似てるのは血なのかも知れません。

そんな彼が 「バイト代で中免をとって単気筒の250か400を買う」 と言い出したとき、流れの速いバイパスを原付で走る危険性を心配していた両親は反対できませんでした。

 

カブはスタッフ女史の長男くんの通勤用にドナドナされて行きました。 私もかなり気に入っていましたので、知ってる人が乗っててくれてうれしいです。

 

 

 

買ってきたのは2002年製ヤマハSR400の3型。 たまに借りる約束で私もすこし手伝いましたが、彼の予算だとこのへんが精いっぱい。 エキパイにシートカバーの焼跡がベットリ付いていたので安かったのですが、ほかは機外とも良好。エンジンはだいたいキック一発でかかります。

うちの親子がノーマルで乗るわけがなく、さっそくヤフオクでマフラーやらエキパイやらを落札して作業開始。 父親におまかせだったメカいじりも最近はだいたい自分で出来るようになりました。 

 

 

次男がさんざんいろんな動画を見て選んだのは  ”モーターガレージGOODS”  のテーパーコーン。 101dbでまぁまぁの音量です。家の前で始動するには気が引けるので、100mほど押して目白通りに出てからキックしてます(^^;

オートバイを下りて久しい私は法規を把握していなかったのですが、どうやらSRの3型は94dbを超えると騒音規制にひっかかるようです。 2000年まで生産された2型にしておけば法規上99dbまでオッケーだったので、バッフルを入れれば98dbになるこのマフラーでもクリアできたのですが、、

音質はものすごく気に入ってるものの、イタイ大人になるのは嫌なので規制内で良さげなものを物色中です。 ただ、アフターファイア対策で二次エアキャンセルの微改造くらいはゆるしてもらいたいところ(^^;

 

 

こんな感じの音色です。

 

 

 

週末は台風の影響でサイクリングはお休み。 合宿で二輪免許を取りに行ってる次男に代わってウィンカーを交換しておきました。

巨大なノーマルを外して

 

スモークレンズのPOSH71タイプに。

 

 

 

買って来た日のSR。 エキパイがきちゃない。

 

いちおう出来上がり。

 

 

 

キャブやエアフィルター、ステップ、ハンドルなどもいじりたいところですが、ほどよくノーマル臭を残して乗るのも悪くないかなとも思ってます。

ツーリングには最高の季節。 さてどこにでかけようか♡

 

 

 

 

 

 

 

 

自ら燃えなければどこにも光はない

  • 2017.10.17 Tuesday
  • 18:00

 

たった5分の通勤電車ですが、車内のポスターを目にするたび気になっていたハンセン病資料館。

雨降りで自転車に乗れなかった日曜日に出かけて来ました。

 

東村山市にあるこの場所は、「国立療養所 多磨全生園」 という1909年(明治4年) に設立されたハンセン病患者の療養施設です。

1907年、浮浪のハンセン病患者を強制隔離するために 「法律第十一号癩予防ニ関スル件」 が制定されて以降、国は在宅のハンセン病患者をも強制的に隔離するために法律を厳しくしていきます。 全国13ヵ所の国立療養所のうちいちばん最初に出来たのがここ全生園の前身の第一区府県立全生病院でした。

その後1943年に 「プロミン」 という薬の有効性が確認されてからハンセン病は治る病気になりました。 その後も治療法はどんどん進歩して行き1981年に確立された多剤併用療法によって完治した患者からの感染の可能性は全く無くなり、新たに発症する人も全国で年間数人という状況になりました。 しかし1996年に 「らい予防法」 が廃止されるまで隔離政策は続いて行きました。 

2001年、ハンセン病患者の強制隔離を定めた 「らい予防法」 が憲法に反していたとする判決が出て、当時の総理大臣であった小泉純一郎は患者および元患者に対して謝罪しました。

 

映画を観るにも60kmほどバスに乗らなければならない過疎の町で育った私は、中学生のころに公民館の体育館で上映された 「砂の器」 を見てはじめてハンセン病のことを知りました。 ただ、近隣の町で発症した人がいたということは聞きませんでしたし、映画を見たときこの病気についてどう感じたかも忘れてしまっていました。

 

 

資料館です。 

 

 

本来資料館の中は撮影禁止なのですが、たまたま受付に学芸員の方がいらっしゃって許可を下さいました。

フィギュアがリアルすぎてドキッとします。

 

 

 

重い、、

 

 

「深海に生きる魚族のように、自ら燃えなければどこにも光はない」。 どこかで聞いた言葉だと思ったら、これは学生時代から明石海人のファンだったという大島渚監督がときどき紹介していた言葉でした。 当時、大島監督は文学に溺れながらも文学に対して好意よりも嫌悪を抱いていたそうです。 なぜなら、深く文学の匂いの中にいるということは、すなわち死の匂いの中にいるということ。 若かった自分は死の匂いを嫌ったんだろうと後に自ら分析しています。 絶望の中においてもどこか生きるよすがを探していた大島青年に答えをくれたのが明石海人のこの言葉だったのだとも。

 

 

 

最後の展示ブースにはいくつものモニターとヘッドホンが置いてあり、70人以上の高齢になった元患者がそれぞれ自らの人生を語る動画を視聴できるようになっていました。 一人のお話しを聞くのに20分ほど。 おふたりの方のお話しを聞いたのですが、時間を忘れて聞き入ってしましました。

この日曜日、私が資料館に滞在した3時間に居合わせた方は2人だけでした。 かえって学校の社会科見学などで子どもたちが訪れる平日の方が来館者が多いのかもしれません。

 

 

 

 

 

全生園のほとんどの場所は、一般の人も自由に歩けるようになっています。

昭和3年に入所者たちの手で建てられ、昭和52年まで使われていたという男子独身寮 「山吹舎」 が復元されていました。

12畳半の部屋に多いときは8人が生活していたそうです。

 

 

 

全生学園跡のグラウンドの碑。 幼少期に発症し、一生をここで過ごした人もいたのでしょう、、

 

 

 

 

 

 

園内には真言宗、浄土真宗、日蓮宗のお寺のほか、カトリック、聖公会、プロテスタント、それぞれ宗派ごとの教会が建てられています。

 

 

軽症の方たちの住宅の各戸には自転車が。 今では外へもおつかいに行けるようになったんですね。

 

思えば私は社会人になってからの数年間、ここから3kmほどしか離れていない場所にあった社宅に住んでいました。1980年代のことですから、当時はまだここに住む方々は外の世界に出ていくことが許されていなかったのです。 

恥ずかしながら、20代の私は自分のことばかり考えていて、まったく人さまのことを思いやれるような人間ではありませんでした。

心弱くなる齢になってやっと少し人の痛みが分かるようになって来たのか、ここで生きた人々のさまざまな痕跡を見るたび激しく心が揺さぶられ、その夜はなかなか眠りに就くことができませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

ナリちゃんと奥武蔵サイクリング

  • 2017.10.10 Tuesday
  • 15:15

 

私と同じく奥武蔵をホームグラウンドにしているナリちゃんが、チームの掲示板でサイクリングに誘ってくれたので行ってきました。 まぁ、彼とはわざわざ待ち合わせをしなくても、ここいらへんの山中でばったり会うこともめずらしくないので、それはそれで楽しみではあったりするのですが(^^)

 

 

飯能市役所で待ち合わせして、まずはいつもの関の入線からグリーンラインへ。

 

 

昨日の雨で路肩の苔もしっとり。

 

 

顔振峠でひと休み。ナリちゃんは ”ちちぶコーラ”。

 

 

 

規制されていなかったのでうっかり上って来てしまいましたが、この日のグリーンラインでは1,200人規模のフルマラソンが開催されていました。

ちょいと銭湯にでも行くような支度でフルマラソンを走る青年。もう15kmくらい走ってるのに足取りは確かで余力もありそう。 しばらく並走しておしゃべりしたのですが、なにしろ陽気。 若いのに人生を楽しむコツを知ってるナイスガイでした。

 

 

 

ランナーのお邪魔になるのも気が引けるので、刈場坂峠まで行くはずの予定を変更して八徳で稜線を降りました。 毎年春になると写真を撮りに来る 「八徳の一本桜」。 すこしづつ深まる秋が葉の色を変え始めていました。

 

 

 

急坂を転がるように下ってきましたが、国道299号に出る手前で飛び込んできた光景に急停車。 言葉は要りませんね♡

 

 

 

吾野宿のあたりではお祭りの準備。

 

 

 

ここからもうひと尾根越えて名栗みちへ出たいのですが、どうせのんきなサイクリングだし走ったことのない道を行ってみようと地図を検索。 見つけた道は途中から未舗装路でした。 マウンテンバイクでのんびり上ったら気持ち良さそう。こんど来てみます(^^)

 

 

ルートを探すのがめんどくさくなって、結局ぜったい上りたくなかった 「子の権現」 の急坂を上ることに。 やっぱりここは年に一回でいいかな(^^;

 

 

ブキミな実(マムシグサ)

 

 

 

今日の目的地はここ 「ゆずの庄」。 中藤川上流のうどん屋さんです。 以前、やっぱりナリちゃんとサイクリングしてたときのこと、補給のタイミングをまちがえてハンガーノックでヘロヘロになった私を救ってくれたがこのうどん。 やっぱりおいしかった!

 

 

 

うどん屋さんで小一時間も休憩したのに、「やっぱメシのあとはコーヒーだな」 と  ”ウクレレ喫茶 やなぎコーヒー” に。 ほんの少しウクレレを嗜む私は、表の看板見るたびにいつも気になっていたのですが、めずらしく日曜日に営業していたので迷わず入ってみました。

寄居に住む松本美浩さんというビルダーさんのウクレレの販売もしていました。 ネックは接着ではなくてボディと一体の削り出し。材はケヤキだそうです。トップはスプルースと黒柿の合わせ。 コンサートサイズの音を出してみましたが、ハワイアン・コア材よりももっと透明感のあるキラキラとやさしい音色。これは弾いたらアカンやつでした。かなり欲しくなってしまいました(^^;

 

 

コーヒーも美味しかったです。この日のコーヒーはエチオピアはコケ村の豆だそう。味わったことのない不思議な香りでした。

仕事が忙しくて今年はほとんど自転車に乗れなかったというナリちゃんは、体重がアレでしんどそうでした。 彼が完調なら私はヒーヒー泣かされるに決まっているので、このままお太れ様のままでいてほしいところ(≧▽≦) また誘ってね。

 

 

 

 

 

 

 

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